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世界の終わり。
2024年05月18日 (Sat)
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2010年06月26日 (Sat)

 知らない子が家にやって来たのは、新しいママと暮らし始めて一年が過ぎた頃だった。赤い顔をした小さなしわくちゃの子を見ながら、皆「可愛い可愛い」と言う。
「あなたの妹よ。可愛いでしょ。仲良くしてね」
 そう言われても全然可愛くなんかないし、パパもママも私と遊んでくれなくなって面白くない。「愛」と名付けられた妹はその名の通り愛されて、私はいつも一人ぼっちだ。悔しくて誰もいない時に妹の足を思い切りつねってみたけど、ただケタケタ笑うだけで泣きもしない。何だか馬鹿にされた気がして虚しくなった。

 妹が生まれて半年と少し経った頃、心臓に小さな穴が見付かった。妹は大きな病院に入院し、沢山の管を体中に巻き付けてぐったりしている。ママはずっと妹に付きっきり、私はパパとお留守番。やっとパパを独り占め出来る。そう思ったのに、パパはそわそわ家中を歩き回ったり、いきなり泣きだしたり、全然私と遊んでくれない。ここにはいない妹の名前ばかりを何度も呼ぶ。私の名前は忘れてしまったのかな。
 夜、布団に横になると涙がぼろぼろ溢れてきた。パパは大きな溜息を吐き、背中を向けて寝てしまった。
「お前なんて知らない」
 そう言われているようだった。

 手術が無事に終わり妹が家に帰ってくると、パパもママもニコニコしていた。私もつられて笑った。妹は胸に大きな傷があったけれど、私の顔を見てケタケタ笑うくらいに元気になった。
 次の日、ママと妹と三人でスーパーに買い物に行った。心臓に繋がった大きな機械と一緒にベビーカーに乗せられた妹は、久し振りに見る外の世界にきゃっきゃっと笑う。今日はママも優しい。私のためにアイスを買ってくれた。妹はまだアイスは食べられないもの。何だか妹に勝った気がした。
 ベンチに座ってアイスを食べていると、ママが言った。
「ごめんね、ママお腹痛くなっちゃったから愛ちゃんのこと見ててくれる?」
 私は大きく頷いて答えた。
「わかった。ちゃんと見てるから大丈夫だよ」
 ママがいなくなったあと、知らないお姉さんが近付いてきた。
「赤ちゃん可愛いね、いくつ?」
「八ヶ月です」
 お姉さんは優しそうに笑って妹をあやす。妹もケラケラと笑う。
「抱っこしてもいいかな?」
 私が返事をする前にお姉さんは妹を抱き上げた。心臓の機械が外れ、妹が泣き出すと、お姉さんは妹を隠すように抱えてどこかに行ってしまった。私はそれをずっと見ていた。ママとそう約束をしたから。

 ママは空っぽのベビーカーを見て
「愛ちゃんはどこ…?」
 と真っ青な顔で呟いた。私をその場に置き去りにして、妹の名前を呼びながら狂ったようにスーパーの中を走り回った。
 スーパーの裏の資材置き場から妹が見付かった時、妹はもう息をしていなかった。
「あんたの所為よ! あんたなんか知らない!」
 ママはその場に泣き崩れた。うずくまるママの背中をぼうっと見ていると、食べかけのアイスがべちゃりと落ちた。



(2010/6)
 

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2010年06月26日 (Sat)

 鋭い痛みが広がるにつれ、思わず、あ、と声を漏らした。その声に呼応するかのように痛みはどんどん強くなる。
「痛くない?」
「うん、痛い」
 彼女は再度僕の肩に歯を立てる。目をつぶると白い世界が広がって、射精する寸前のような、どうにももどかしい気分になる。
 その痛みは僕が欲したものだった。彼女には「恋人の肩の肉を噛む」という獣みたいな癖がある。最初それを聞いた時は驚き、少し引いてしまったものだが、今ではすっかり僕の方がその痛みに取り憑かれている。

 翌朝、じんわりと残る肩の痛みで目が覚めた。鏡でその部分を見てみると、彼女の歯の形がくっきりとそこに並んでいる。手を当てると少し熱い。そして彼女の柔らかい体、おどおどした瞳、高い声の細部までもが急速に思い出され、僕は自慰に耽った。頂が近付けば近付くほどに、肩の痛みは強くなる。射精の瞬間を迎えると、どくどくと溢れ出る精液の鼓動に合わせて熱は引いて行った。床に寝転がり目を閉じると、はにかんだ彼女の顔が呼吸と共に浮かんでは消えた。

 僕の仕事と彼女の就職活動が忙しくなったのは同時期で、会えない日々が続いた。電話越しに
「君の肩、噛みたいなあ」
 と寂しそうな声を聞くたびに、僕の左肩はずきんと痛んだ。歯型はもうとっくに消えていたけれど、痛みは時々記憶と共に蘇る。電話を切ると、僕はまた自慰を始めた。このところ毎日だった。あの痛みが忘れられない。忘れたくないから思い出すために自慰をしている。そんな日々が過ぎて行った。

 ある朝着替えようとして、僕は鏡の中の自分の変化に驚いた。左肩の、ちょうどその部分だけが、彼女の歯の形に合わせて楕円に凹んでいる。手を当ててみたが、骨に異常があるわけでも皮膚が破れているわけでもない。ただそこにぽっかりと窪みが出来ているのだ。
 その窪みは、自慰を重ねるたびに深くなって行った。早く彼女に会って肩を噛んでもらわないと、僕の体に穴が開いてしまうかも知れない。
 僕は彼女に電話をして会う約束を取り付けようとした。しかしその日に限って電話が繋がらない。なんだか悲しくなって、僕は泣いてしまった。涙を流したのなんて、高校三年生の野球部の引退試合で負けた時以来だ。
 ばかみたいな声を上げて泣きながら、僕は左肩の重さに気付いた。首をひねっても死角になって見えないそこは、手をやると指先が生ぬるい水で濡れた。窪みの中から涙が湧いているようだった。

「昨日携帯忘れて泊まりに行っちゃった。どうしても会いたくなったからその足で来ちゃったよ」
 玄関で子どもみたいにいたずらな笑顔を浮かべる彼女を思わず抱き締めると、左肩にあの甘い痛みが広がった。
「ごめんね、またいっぱい噛ませてね」
 僕は、あ、と声を漏らした。そして彼女が洟をすする音を聞いた。いや、あれは窪みに湧いた涙をすすっていたのかも知れない。肩から口を離すと、彼女は
「ごちそうさま」
 と言って笑った。



(2010/6)
 

2010年06月26日 (Sat)

 板張りの縁に寝転がり目を閉じると、まぶたの薄い皮膚の隙間から漏れて来る強い光で視界が赤く広がる。ところどころに黒い点、眼球を移動させるとそれはその先々について来て、まぶたの中で目を閉じてしまいたい衝動に駆られる。
「また寝とるんか」
 蝉の大合唱に混じって低い声が上から落ちて来る。眩しくてまぶたが開かない。仕方なく体を起こすと、汗と一緒に全身を倦怠感が流れた。
「邪魔、どけや」
 十年前は小さな小学生だった弟は現在思春期真っ盛りで、女の子みたいに可愛らしかった当時の面影はまるでない。死んだ父に似たのか、身長はゆうに180センチを超えている。母親を「ババア」と呼ぶほどにたくましい男に育った。
「十年ぶりに帰ってきたんよ、ちょっとくらいゆっくりさせてや」
「ゆっくりし過ぎじゃボケ」
 先週号のジャンプを枕にして、成長し過ぎた弟の体が縁の上を独占する。
「ちょっと、邪魔はどっちなん」
 爪先で分厚い脇腹を小突くと、顔の上に今週号のヤンマガを載せた弟が鼻先でふっと笑う。
「ここは俺の家やからええんや。十年も家に帰って来んかった女が何抜かす」
 口を動かすたびにヤンマガも少しずつ動く。その上に、さっきまで私が使っていたそばがらの枕を勢いよくのせた。
「何すんじゃボケ! 死ぬで!」
「勝手に死んだらええんちゃう」
 観念したように弟は廊下の奥へ消えて行った。私は再び横になる。板張りはぬるく、紫外線が全身を攻撃しているのを皮膚で感じる。蝉の声が遠のいて行き、赤い闇が落ちてくる。

 父の初盆は昨日終わった。葬式には出なかった。私は父が好きでも嫌いでもなかったし、それより母が
「あんたは血繋がっとらんのやで、別に無理して来んでもええよ。色々めんどくさいこと言われるしな」
 と言ってくれたから出なかった。辛うじて私の居場所だった二階の四畳半は、今は受験生になった弟の部屋になっている。

「おい、やっぱそこどけ」
 父のサングラスを手に、弟が戻って来た。もう片方の手には凍らせたチューペット。
「あー、ずるい! 半分ちょうだいよ」
「アホ、自分で行け」
 サングラスをかけ、私の横に座りこんで白い棒をかじる弟は、狭い、邪魔、と言いながら私の体を軽い力で蹴る。
「おっそろしく似合わんなあ、それ」
「黙れ」
 チューペットから落ちたしずくが板張りの床を濡らす。サングラスをかけた弟は、どこか父に似ている気がする。
「なあ、スイカ食べたいなあ」
 自分の喋り方が、いつの間にか母に似てきていることにも気付いて驚く。
「チューペットでもええなあ、それ、うまそうやなあ」
「うざい、黙れ」
 低い声を鼓膜で受け止めながら目を閉じる。太陽の下で眠るのなんて、何年ぶりだろうか。
 ぱらり、と漫画をめくる音が耳に心地よい。夕方になったらスイカを買いに行こう。赤い闇はスイカの果肉の色だ。再度、蝉の声が遠くなる。



(2010/6)

 

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1984/09/21
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