太陽くんの夢を見た。内容はよく覚えていない。でも、水があった気がする。あとは後ろ姿。虫眼鏡。断片的にしか思い出せないのはいつものことだ。上手く現実を直視出来ない私の性格が顕著に出ていると思う。
太陽くんと知り合って、もう随分経つ。まだ二人とも学生だった頃、ずる休みをした日の路面電車の中で初めて彼を見た。学生服を着た彼は、同じくセーラー服を着た私に親近感を覚えたのかも知れない。声は向こうから掛けて来た。適当な駅で降りて、日が暮れるまでくだらない話をした。
目が覚めたのは正午過ぎだった。遮光カーテンの向こう側ではとっくに世界が始まっている。取り残された、とは思わない。ごくろうさま、とは思うけれど。
夢の報告をしようと思い、太陽くんに電話をした。太陽くんは"不真面目な"会社員だ。私から掛かってきた電話を一度も取り損ねたことがない。
「もしもし」
「もしもし」
低く穏やかな声に、ひどく安心する。
強がっているつもりはないが、私は今の状態にもしかしたら物凄く焦っているのかも知れない。職は無く、恋人も配偶者も無く、連絡が取れる友達は皆無、親のすねをかじって引きこもり、才能も無い。
「自由は幸せなことだよ」
いつか太陽くんはそう言ったけれど、結局はただの甘えなのだ。そしてそんな自分を改めようとしないのは、自分が可愛いから。楽をしたいだけだから。ぬるま湯から抜け出すのが怖いから。それに尽きる。焦っているのは、このまま、腐った人間のまま一生を終えるのではないかということ。
「夢を見たの」
「何の夢?」
「太陽くんの夢」
「へえ」
太陽くんは感情をあまり外側に向けない人間だ。よく「へえ」と言う。興味が無いのかも知れない。でも、私はそれが嫌いじゃない。
私たちは昔同じ細胞だったのではないか、とたまに思う。私と太陽くんはよく似ている。顔が、とか、性格が、とか具体的なものではなくて、ただ何となく。強いて挙げるなら生き方が。
私と太陽くんは恋人も作らずにふらふらしている。
「作れない訳じゃない」
と太陽くんは言うし、私もそうだ。「作れない」のではなく「作らない」のだ。他人と近付き過ぎるのが怖い。まあ実際はそんなに大袈裟なものでもないのだが、他人のことで気を揉んだりするのが面倒臭いのだ。
面倒臭い。それが一番簡単で、的を得た答えだと思う。
似た者同士の私たちは、お互いを「恋人」だとは思っていない。買い物にも食事にも出掛けるし、キスもセックスもする。心もとない時には手を繋ぐ。不安に押し潰されそうな夜には抱き合って眠る。でも「恋人」が持つ権力――浮気しないで、とか、結婚しようね、とか、未来の約束とか――は持たない。束縛をする気が無いと言った方が良いのかも知れない。かと言って「友達」ではない。「兄弟」とも違う気がする。よく分からない関係なのだ。
「ねえ、ホタルを見たくない?」
夢の話をしたあと、ネコの発情についての考察を披露していたら、唐突に太陽くんが言った。太陽くんになら話をぶった切られても許せるのは何故だろう。互いの感情がそこに存在しないからだろうか。
「ホタルなんてどこにいるの?今二月だよ?」
受話器の向こう側で太陽くんが静かに笑ったのが分かった。口の端を少しだけ持ち上げ、にやり、と。悔しいので私も笑ってみる。久し振りに顔の筋肉を動かしたので、頬が攣りそうになった。
翌日、私たちはホタルを見るために高速道路を走っていた。"不真面目な"会社員である太陽くんは「父が危篤で」とずる休みをしたらしい。太陽くんの家は母子家庭なのに。
RADIOHEADを入れた私のMDはところどころ音飛びしていて、車内は変に落ち込んだ空気で満ちていた。私も太陽くんもあまり口を開かなかったが、悪い雰囲気ではない。これくらいの距離が心地良いのだ。それを理解してくれる人間を、私は今のところ太陽くんしか知らない。
日が暮れ始める頃、ようやく目的地に着いた。私はそれまでどこに向かっているのかも知らされていなかったのだが
「昔おばあちゃんの家があったんだ」
という山の奥地の畑のど真ん中で車は停まった。車を降りて体を伸ばすと、背骨がばきばきと鳴った。吐く息は白く、空気はとても冷たい。清潔な感じがして気持ちが良かった。
「ごめん、ホタルなんて嘘」
小さな声で太陽くんが言う。何を今更分かり切ったことを言っているのか。
「うん、知ってた」
笑いながら振り向くと、太陽くんは赤と紺が混じりあった空を見上げながら泣いていた。夕日の所為か、顔は真っ赤だった。
「例えば、例えばさ、『止まない雨はない』とか『春が来ない冬はない』とか言ったりするだろ。でもそれって本当なのかな。ずっと降り続ける雨も、春が来ない冬も本当は存在するんじゃないのかな」
太陽くんの真意が見えずにしばらく突っ立ったまま動けないでいると、遠くで「夕やけこやけ」のメロディーが聴こえた。空は徐々に暗くなり、妙な寂しさが心臓を締め付けて行く。
「それを信じて生きるのはいけないことなのかな、それに縋って生きるのは悲しいことなのかな」
太陽くんの涙を見たのは初めてのことだった。私はただ何も出来ず何も言えず、突っ立っていた。
それはつまり太陽くんの生き方そのもので、私自身が目を背けて来た私の生き方でもあった。現実を直視出来ない私はそんなことを考えたことすら無かったけれど、きっと太陽くんは不安だったのだ。私よりずっとずっと繊細に出来ているのだろう、太陽くんは。男の子が泣く姿を見たのも初めてだった。
ひとしきり泣いたあと、太陽くんは無理矢理笑顔を作って
「帰ろう。ごめんこんなところまで連れて来て」
と私の手を取った。見上げた横顔は、もういつもの太陽くんに戻っていた。
「夏にはちゃんとホタルが見えるんだよ。また夏に見に来よう」
私は頷いて返事をする。
「あ」
「あ?」
運転席に乗り込みながら、太陽くんは私の方を見た。腫れぼったい目が痛々しかった。
「もしかして初めてじゃない?そんな約束したの」
「そうだっけ」
私たちの関係は近付いたのだろうか、遠ざかったのだろうか。
「生きることってさ、そんな簡単なことじゃないじゃない。死のうと思えばいつだって死ぬことは出来るし、いくらでも逃げ道はあるのに、『ちゃんと生きよう』『こう生きよう』と思って生きることは難しいんじゃないかな。誰かに決められるものでもないし、自分が良いと思うならそれが正確なんだよ。後悔したらやり直せば良いんだよ。生きているうちはやり直せるんだからさ」
昔どこかで誰かに聞いたセリフと同じような言葉を太陽くんに捧げていたら、まるで自分自身に言い聞かせているようだと思った。太陽くんは口の端を少しだけ持ち上げて
「ありがとう」
と言い、私たちは来た時と同じ道をゆっくりと帰った。
車内では相変わらずRADIOHEADが音飛びをしている。来た時よりもほんの少しだけ饒舌になった太陽くんは
「トムヨークも粋な歌い方するね」
と穏やかな口調で呟いた。
帰ったら、二週間振りに部屋の掃除をしよう。気力が湧いたら求人誌を買いに行こう。湧かなかったらもう少しモラトリアム期間を満喫しよう。生きていればどうにかなるさ。出来ることからすれば良い。トムヨークだって生きているし。太陽くんだって生きている。
高速道路の高い塀の向こう側にはちらちらと街の灯りが見える。
「ほら、ホタル沢山いるよ」
そう指差すと太陽くんはばつの悪そうな笑みを浮かべ、
「へえ」
と言った。
(2007/6)
ただのメモです。