忍者ブログ
2024.04│ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
世界の終わり。
2024年04月30日 (Tue)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2009年05月21日 (Thu)
 彼女が隣の市の国立病院に転院してから三週間が過ぎた。週末には必ず面会に行くし、そうでなくても時間が出来れば僕は病院に向かう。最上階の九階、ナースステーションを突っ切った廊下の一番奥の個室が彼女の病室だ。
「いらっしゃい」
 僕の姿を見付けた彼女は、優しく美しい笑みを浮かべ僕を手招く。
「退屈だったわ。でも、もうすぐ退院出来そうなの」
 嬉しそうに声を弾ませる彼女の額には大きな裂傷が走り、白く細い首にも同じような赤い傷が幾つも付いている。手首から二の腕にかけてが一番ひどく、太股、腹、肋骨の上、体中は傷だらけだ。しかし満身創痍の彼女は常に笑みを絶やさない。だから僕も笑う。僕に出来ることは笑って話を聞くことくらいしかないのだ。彼女を救い出すことが出来ない無力さに、僕は心底うんざりする。
「早く外の空気を吸いたいなあ」
 窓辺に立ち、彼女は呟く。視線は突き抜けるような青空を捕らえたまま動かない。彼女の背中になら羽根が生えていてもきっとおかしくはないだろう。

 緩やかに、そして確実に彼女は壊れて行った。その状態に貶めたのは僕だけが原因ではない。そう思い込むことにしてはいるが、拭いきれない罪悪感に打ちのめされることの方が多くて僕は挫けそうになる。そんな時は彼女に会いに行く。彼女の笑みに僕は救われている。
「昨日、あなたの夢を見たの。腕を組んで砂浜を歩いていたわ」
 彼女の表情が一瞬間、堅くなる。泣きそうな表情のまま無理矢理笑みを作り、視線を青空に戻すと彼女は格子のはまった窓を開けた。今すぐにでも飛び去って行ってしまいそうだ。
 僕は、彼女に触れられない。かつては幾度となく抱き合った仲なのに。
 現在の彼女は僕が触れるだけですぐに崩れ落ちてしまいそうなほど脆くて弱い。僕が勝手にそう見ているだけだが、実際のところ彼女は細く、ごく最小限の肉しか付いていない。
 自惚れているということは百も承知だ。自意識が過剰過ぎることも、それが彼女を苦しめている一因であるということも。
 一定の距離を保ったまま僕たちは狭い病室で時間を共有する。淀みなく季節は流れて行くのに、僕の心は淀んだまま動かない。

「りんごジュースが飲みたい」
 彼女がそう言ったので、僕は地下階にある売店に向かった。彼女はあまり自分の欲望を口に出さないので、用明された僕は久し振りに「嬉しい」という感情で体を満たすことが出来た。
 紙パックに入ったりんごジュースとあんドーナツと共に病室に戻る。僕の姿を見付けた彼女は、満面の笑みをたたえたまま涙をこぼした。涙はとめどなく溢れ、笑いながら嗚咽する彼女の姿は憐憫と悲劇が支配している。異様な光景だった。
 僕は驚き、一瞬後ずさってしまう。それでも恐る恐る彼女の肩に触れてみると、小さくて華奢で、冷たい体がそこにあった。
「手を、繋いで欲しいの」
 震える声で彼女は言う。僕は躊躇した。動けなかった。彼女の手を握ることで、僕の方がどうにかなってしまいそうだったのだ。
 ゆっくりと彼女の手のひらが近付く。蛇に睨まれた蛙のように、僕の体は固まったままだ。氷のように冷たい手のひらの感触で、僕は我に返る。一度強く握り返したあと、彼女の頬に触れると指先が涙で濡れた。
「ごめんね」
 彼女は言う。
「ごめんね」
 彼女は繰り返す。
「ごめんなさい」
 声が次第に曇って行く。
「ごめんなさいごめんなさい」
 彼女の声には既に表情が無い。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
 それしか言えないロボットのように、彼女は繰り返し囁く。僕は耳を塞ぎ、彼女の声を遮る。しかし終わらない。絶つことが出来ない。

 その時の僕は、きっとどうにかなってしまっていたのだと思う。指先に込めた力の強さに、自分でも驚いてしまった。
 彼女の声が弱く響く。狭い病室の中で反響し、エタノールの匂いに混ざってうやむやにされる。それはある時から完全に消えてしまうのだが、僕の頭の中では絶えず鳴り続けたまま終わらない。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
 頭痛と耳鳴りが交互に押し寄せて来た頃、彼女はだらしなく腕を垂らしたまま動かなくなった。赤い傷痕は、青白い肌によく映えて、ある種の芸術品のようだった。

 リノリウムの床に転がったりんごジュースとあんドーナツを拾い上げ、僕は彼女に手渡す。力無く伸びきった指先がそれを掴むことはない。仕方なく彼女の手のひらの上に乗せると、驚くべき早さで雲が流れて行った。窓の外は相変わらず青い。
 僕は解放されていた。冷たい指先に触れると僕の中の恐怖が一掃され、浄化されて行くように思えた。
 二度と起き上がることのない彼女の薄い胸の上で、僕は声を上げて泣く。
 二度と握り合うことのない手のひらを白い病室の中でいつまでも繋いでいたら、やはり僕はどうにかなってしまっているのだと気付いた。



(2007/6)
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
←No.10No.9No.8No.7No.6No.5No.4No.3No.2No.1
最新コメント
[06/27 骨川]
[05/22 くろーむ]
プロフィール
HN:
原発牛乳
年齢:
39
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
職業:
自由人
趣味:
眠ること
自己紹介:

ただのメモです。


ブログ内検索
最古記事