鋭い痛みが広がるにつれ、思わず、あ、と声を漏らした。その声に呼応するかのように痛みはどんどん強くなる。
「痛くない?」
「うん、痛い」
彼女は再度僕の肩に歯を立てる。目をつぶると白い世界が広がって、射精する寸前のような、どうにももどかしい気分になる。
その痛みは僕が欲したものだった。彼女には「恋人の肩の肉を噛む」という獣みたいな癖がある。最初それを聞いた時は驚き、少し引いてしまったものだが、今ではすっかり僕の方がその痛みに取り憑かれている。
翌朝、じんわりと残る肩の痛みで目が覚めた。鏡でその部分を見てみると、彼女の歯の形がくっきりとそこに並んでいる。手を当てると少し熱い。そして彼女の柔らかい体、おどおどした瞳、高い声の細部までもが急速に思い出され、僕は自慰に耽った。頂が近付けば近付くほどに、肩の痛みは強くなる。射精の瞬間を迎えると、どくどくと溢れ出る精液の鼓動に合わせて熱は引いて行った。床に寝転がり目を閉じると、はにかんだ彼女の顔が呼吸と共に浮かんでは消えた。
僕の仕事と彼女の就職活動が忙しくなったのは同時期で、会えない日々が続いた。電話越しに
「君の肩、噛みたいなあ」
と寂しそうな声を聞くたびに、僕の左肩はずきんと痛んだ。歯型はもうとっくに消えていたけれど、痛みは時々記憶と共に蘇る。電話を切ると、僕はまた自慰を始めた。このところ毎日だった。あの痛みが忘れられない。忘れたくないから思い出すために自慰をしている。そんな日々が過ぎて行った。
ある朝着替えようとして、僕は鏡の中の自分の変化に驚いた。左肩の、ちょうどその部分だけが、彼女の歯の形に合わせて楕円に凹んでいる。手を当ててみたが、骨に異常があるわけでも皮膚が破れているわけでもない。ただそこにぽっかりと窪みが出来ているのだ。
その窪みは、自慰を重ねるたびに深くなって行った。早く彼女に会って肩を噛んでもらわないと、僕の体に穴が開いてしまうかも知れない。
僕は彼女に電話をして会う約束を取り付けようとした。しかしその日に限って電話が繋がらない。なんだか悲しくなって、僕は泣いてしまった。涙を流したのなんて、高校三年生の野球部の引退試合で負けた時以来だ。
ばかみたいな声を上げて泣きながら、僕は左肩の重さに気付いた。首をひねっても死角になって見えないそこは、手をやると指先が生ぬるい水で濡れた。窪みの中から涙が湧いているようだった。
「昨日携帯忘れて泊まりに行っちゃった。どうしても会いたくなったからその足で来ちゃったよ」
玄関で子どもみたいにいたずらな笑顔を浮かべる彼女を思わず抱き締めると、左肩にあの甘い痛みが広がった。
「ごめんね、またいっぱい噛ませてね」
僕は、あ、と声を漏らした。そして彼女が洟をすする音を聞いた。いや、あれは窪みに湧いた涙をすすっていたのかも知れない。肩から口を離すと、彼女は
「ごちそうさま」
と言って笑った。
(2010/6)
ただのメモです。