世界の終わり。
「かわいそう」
あの子は私にそう言った。
「あなたには何もないから。守るべきものも、失うものも、得られるものも、与えられるものも、何もないじゃない」
赤い傘にくっついた桜の花びらを見ながら、私は考える。少なからず何かしら、私の中に存在するであろう価値のあるものを、思い出そうとする。少しだけ頭が痛くなる。頭蓋の内側がみしみしと音を立て始め、頭の中に描こうとしたそれらのものを自動的に塗り潰していく。
桜の花びらは、雨に濡れてべったりと傘に張り付いている。
私には、名前がない。私の名前を誰も呼ばない。きっと誰も私の名前を知らないのだと思う。私ですら知らないのだから、私以外の人間が知っているということ自体がそもそもおかしい。
私は、名前がないことを今まで知らなかった。そんなこと、一度も考えたことがなかった。あの子には名前がある。誰しもが知っている、あの子だけの名前が存在する。それが私にはない。
「何もない」
言葉にして放り投げると、あの子は笑ってそれを受け取った。
「何もないの。あなたには何もないのよ」
繰り返しその言葉を投げたり受けたりしていると、どうやらそれが真実のように思えてくる。私には、何もない。
視界の端で、雨に濡れた花びらが桜の木からぼとりと落ちる。雨は先ほどよりも弱くなった。あの子は傘を差していない。白く透けた制服に、雨粒が染み込んでいく。
私には、友達がいない。家族がいない。恋人も、ペットもいない。私と社会を繋いでいるのはあの子だけ。でも、あの子は私の何なのかと聞かれたら、何でもないと答えるだろう。知人でも、友達でもない、ただの人間。
薄い闇が私とあの子の上に落ちてくる。薄紫色の空が、冷えた空気と夜を連れてきて、背中がひやりと凍える。
「何もない」
時間が流れる。いつまであの子はそこに立っているつもりなのだろう。そして私はいつまでここに立っていれば良いのだろう。わからない。私には時計もない。時間という概念もない。ひたすら時が流れ、場面が変わるのを待っているだけ。
では、考えてみよう。今日、この時間、あの子に出会うまで、私が重ねてきた日々の生活について。
「何もない」
驚いた。私には記憶もない。記憶と呼べるような、意識の沈着、積層が何一つない。今、この瞬間よりも前のことについて覚えていることが何もない。
その事実は私に何よりも大きなショックをもたらした。息が苦しくなる。呼吸に合わせて肩が上下する。目の前に光のかけらが舞い、倒れてしまいたいのに体が動かない。力が入らない。横にすらなれない。
あの子の顔が徐々に歪んでいく。美しい顔は原型を失って、ぐるぐると渦を巻きながら顔のパーツを削ぎ落としていく。
「何もないの」
乾いた声が鼓膜に届くと、あの子は私に近付いて耳元で囁いた。
「かわいそうだからあなたに全部あげる」
あの子が私の中に入ってくる。何度も吐きそうになりながら、あの子を私は受け入れる。あの子の体がぐにゃんと曲がって、細長い体がのどの奥を通り抜ける。呼吸が出来ない。見上げた空に星が浮かび、冷たい雨が顔に降りかかる。目を閉じるとあの子の顔が浮かんだ。あの子の顔には、顔がなかった。
私はあの子になる。あの子の持っているものすべてを手にいれる。何もなかった私はあの子を手に入れて、あの子になった私には何かが生まれるだろう。何か。私が持たなかったたくさんの事柄、名前、友人、恋人、家族、記憶や感覚、制服に溶けた雨粒の一つが、私のものになる。果たしてそれは祝福すべきことであろうか。いや、そんなことは愚問だ。ゼロからイチになった私にとって、それはもうどうでも良いことだ。
あの子の体が完全に私のものになると、強い風が吹いて桜の木が大きく揺れた。花びらは舞い、湿ったアスファルトの上に音もなく落ちる。
傘の上の桜の花びらを手に取り、口に入れ、ゆっくりと飲み干す。なくなってしまったあの子に花を手向けましょう。あの子が好きだった桜の花を。
(2010/12)
あの子は私にそう言った。
「あなたには何もないから。守るべきものも、失うものも、得られるものも、与えられるものも、何もないじゃない」
赤い傘にくっついた桜の花びらを見ながら、私は考える。少なからず何かしら、私の中に存在するであろう価値のあるものを、思い出そうとする。少しだけ頭が痛くなる。頭蓋の内側がみしみしと音を立て始め、頭の中に描こうとしたそれらのものを自動的に塗り潰していく。
桜の花びらは、雨に濡れてべったりと傘に張り付いている。
私には、名前がない。私の名前を誰も呼ばない。きっと誰も私の名前を知らないのだと思う。私ですら知らないのだから、私以外の人間が知っているということ自体がそもそもおかしい。
私は、名前がないことを今まで知らなかった。そんなこと、一度も考えたことがなかった。あの子には名前がある。誰しもが知っている、あの子だけの名前が存在する。それが私にはない。
「何もない」
言葉にして放り投げると、あの子は笑ってそれを受け取った。
「何もないの。あなたには何もないのよ」
繰り返しその言葉を投げたり受けたりしていると、どうやらそれが真実のように思えてくる。私には、何もない。
視界の端で、雨に濡れた花びらが桜の木からぼとりと落ちる。雨は先ほどよりも弱くなった。あの子は傘を差していない。白く透けた制服に、雨粒が染み込んでいく。
私には、友達がいない。家族がいない。恋人も、ペットもいない。私と社会を繋いでいるのはあの子だけ。でも、あの子は私の何なのかと聞かれたら、何でもないと答えるだろう。知人でも、友達でもない、ただの人間。
薄い闇が私とあの子の上に落ちてくる。薄紫色の空が、冷えた空気と夜を連れてきて、背中がひやりと凍える。
「何もない」
時間が流れる。いつまであの子はそこに立っているつもりなのだろう。そして私はいつまでここに立っていれば良いのだろう。わからない。私には時計もない。時間という概念もない。ひたすら時が流れ、場面が変わるのを待っているだけ。
では、考えてみよう。今日、この時間、あの子に出会うまで、私が重ねてきた日々の生活について。
「何もない」
驚いた。私には記憶もない。記憶と呼べるような、意識の沈着、積層が何一つない。今、この瞬間よりも前のことについて覚えていることが何もない。
その事実は私に何よりも大きなショックをもたらした。息が苦しくなる。呼吸に合わせて肩が上下する。目の前に光のかけらが舞い、倒れてしまいたいのに体が動かない。力が入らない。横にすらなれない。
あの子の顔が徐々に歪んでいく。美しい顔は原型を失って、ぐるぐると渦を巻きながら顔のパーツを削ぎ落としていく。
「何もないの」
乾いた声が鼓膜に届くと、あの子は私に近付いて耳元で囁いた。
「かわいそうだからあなたに全部あげる」
あの子が私の中に入ってくる。何度も吐きそうになりながら、あの子を私は受け入れる。あの子の体がぐにゃんと曲がって、細長い体がのどの奥を通り抜ける。呼吸が出来ない。見上げた空に星が浮かび、冷たい雨が顔に降りかかる。目を閉じるとあの子の顔が浮かんだ。あの子の顔には、顔がなかった。
私はあの子になる。あの子の持っているものすべてを手にいれる。何もなかった私はあの子を手に入れて、あの子になった私には何かが生まれるだろう。何か。私が持たなかったたくさんの事柄、名前、友人、恋人、家族、記憶や感覚、制服に溶けた雨粒の一つが、私のものになる。果たしてそれは祝福すべきことであろうか。いや、そんなことは愚問だ。ゼロからイチになった私にとって、それはもうどうでも良いことだ。
あの子の体が完全に私のものになると、強い風が吹いて桜の木が大きく揺れた。花びらは舞い、湿ったアスファルトの上に音もなく落ちる。
傘の上の桜の花びらを手に取り、口に入れ、ゆっくりと飲み干す。なくなってしまったあの子に花を手向けましょう。あの子が好きだった桜の花を。
(2010/12)
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プロフィール
HN:
原発牛乳
年齢:
40
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
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自由人
趣味:
眠ること
自己紹介:
ただのメモです。
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