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世界の終わり。
2024年05月21日 (Tue)
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2010年04月02日 (Fri)

 四方を真っ白に囲まれた小さな部屋の中に立ちこめているのは動物的な血のにおいでした。何も無いのに、窓も扉も何も無いただの白い部屋なのに、どこからかそのにおいは漂って来て、私の嗅覚と思考を狂わせます。どこかで嗅いだ、けもののようなにおい。白い天井を見上げると勝手に涙がどばどば出て来ました。白はどこまでも続いているようで私の真上に落ちて来るようでもあり、この部屋の広さがどのくらいのものなのか、私は皆目見当が付きません。
 涙を拭おうと手のひらを顔に近付けた時、血のにおいの出どころが分かりました。私の手のひらから肘にかけて大量の血液がこびり付き、手首に刻まれた何本もの傷からは現在進行形で血が流れています。それを目にした瞬間速くなる鼓動、どくん、どくん、という音に合わせて血が噴き出し、白い床を汚します。それは片方だけでなく両の腕から同じように流れていて、貧血でも起こしそうなはずなのに私はしっかりと立ったまま、痛みも何も感じないのでした。
 部屋には小さな音が流れています。音楽とも誰かの会話とも区別が付かないほどの小さな音量でとても耳に心地良く、次第に私は眠くなりました。あくびを続けて三回して、血まみれになった床に横たわります。腕から流れ続ける血液を見つめながら、ぼんやりと死を思いました。このまま私は死んでしまうのだろうか。まだ二十年しか生きていないのに。でも不思議と怖くない。人間が死ぬということは、痛みも苦しみも伴わず、ただ眠ったまま目が醒めなくなることなのかも知れない。
 ゆっくりと目を閉じると、そこには赤い夕焼けが広がっていました。強い西日に目を細めながら、私はまだ小さな妹と公園のベンチに座っています。
「何時になったら帰れるん?」
 幼い妹は私に尋ねます。私はただ首を振り、公園の中央に置かれた丸い時計をじっと見ています。妹の小さな手のひらを握ると熱い体温が伝わって来て、母の言葉が頭の中でこだましました。
「あんたなんか産まなきゃ良かった。あんたの所為で私の人生めちゃくちゃよ」
 母の機嫌を窺うことばかりに気を回し過ぎて、いつの間にか私は完璧な子供になっていました。学校での成績は常に一番で、走れば男子よりも速く、絵を描けば必ずコンクールで賞を取り、母はその度に私を愛し抱き締めてくれました。それでも、ごくたまに体調を崩した結果としてテストの点数が百点に満たなかったりすると、その言葉を吐き捨て、私と妹を家から閉め出すのです。常に完璧を求められていた私の体はそろそろ限界で、走り続けることに無理を感じていました。母はそれを知らない。このまま足の裏がただれても、呼吸が出来ないほど苦しくなっても、私に走り続けることを命じました。真っ赤な夕焼けと反比例するように外の空気は冷たく、私と妹は身を寄せ合って寒さに耐えています。それは何度も繰り返された小学生の頃の記憶でした。
 どれくらいの時間が経ったのでしょう。私は目を醒ましました。腕の血は止まっていて、床は真っ白なままです。手首の傷もいつしか消えていました。それでも部屋の中の血のにおいは未だ消えず、更に濃度を増したように思えます。白い床にぺたりと頬をくっつけて、少しでも血のにおいから逃れようとしましたが、どこまでもどこまでもそれは追い掛けて来て、私を閉じ込めてしまうのです。
 血液に封じ込められた私は、酸欠の金魚のように仰向けに寝そべり口をぱくぱくと動かしました。その瞬間、天井から細長い何かが落ちて来ました。一つ、二つ、それは段々と数を増し、遂には私の体の上にも小さな衝撃が生まれました。上体を起こしお腹の上に落ちて来たそれを手にとると、濃い血のにおいが私の肺を満たします。よく見るとそれは小さな腕でした。手首から先は千切れています。先端には固まった血液がこびりつき、既に黒く変色し始めていました。
 辺りに転がる細長い物体も、よく観察してみると小さなふとももであったり、血まみれの胴体であったりしました。ゆっくりと増えていく小さな人体のかけらを前に、私はどうすることも出来ず途方に暮れました。このままではこの部屋がばらばらになった体で埋もれてしまう。どうにかして片付けないと。
 その時頭の上をかすったのは、丸いボールのようなものでした。足元に落ちたそれを拾い手の中で転がすと、ボールの上に乗っかった二つの瞳と目が合いました。目玉はじっとこちらを見たままで、私は目を逸らすことも出来ずに見つめ合ったままです。そのうちにゆっくりとその二つの真っ黒な瞳に吸い込まれるようにして、私の周りは黒い闇に包まれて行きました。
 真っ暗な部屋の中に私は立っていました。ここにもやはり血のにおいが漂っています。暗闇の中、前方に小さな女の子が佇んでいました。表情は暗くて読み取れず、白いワンピースだけがぼんやりと輪郭を浮かび上がらせています。この部屋には音が無く、女の子がすすり泣く声だけが静かに響いていました。彼女のもとに行くべきなのかどうか思案しながらも体はその場に固まったまま動かず、私は立ち尽くすしかありませんでした。
「理沙」
 すぐ後ろで、私の名前を呼ぶ声がしました。振り向くとそこには見覚えのある顔、数日前まで恋人だった賢太郎が立っていました。背の高い賢太郎は見下ろすように私を見つめ、弱々しく首を横に振ります。女の子の方をもう一度見ると、もうそこに彼女の姿はありませんでした。賢太郎は悲しそうな顔でこちらを見ています。何と言葉を発したら良いのか分からず、私はその場にうずくまりました。そしてその瞬間、あの白い部屋に落ちて行きました。
 先ほどと違うのは、白い部屋を埋め尽くしていた人体のかけらと血のにおいが消えていたこと、部屋に窓があることです。窓の外には雲一つ無い真っ青な空が広がっていました。私は慌てて窓を開け、青い空の下に飛び出して行きました。
 足元は青々と繁る芝が広がり、地平線は果てしなくどこまでも続いて行きます。私は走り出しました。足の裏が擦り剥けてじんじんと痛んでも、呼吸のし過ぎで肺が痛くなっても、走り続けました。あてなど何も無く、ただ走らなければならない、という根拠の無い使命感に支配されていたのです。
 青と緑の境目を目指して、私は走ります。どれだけ走っても終わりは見えません。そのうち、がくん、という音が体内に響いて、もつれるように私はその場に倒れ込みました。荒い呼吸で何度も胸は上下し、気道はすっかり乾いて咳込んでしまいます。意識がぼんやりと戻って来ました。痺れるように、体の奥からどくんどくんと心臓が動く音が聞こえます。世界が引っくり返ったようにふわふわと浮かんだままの感覚で、私の体は縮こまりました。
 少し落ち着いた頃、仰向けになりただ青いばかりの空を眺めていると、あの血のにおいが再び漂って来ました。それから逃げようと寝返りを打つと、小さな顔がこちらを見ています。二つの黒い瞳はゆっくりと口を動かし、ほんのりと笑みを浮かべ
「ハヤシサン」
 私の名前を呼びました。

「林さん、終わりましたよ。麻酔が切れたらもう帰れますからね」
 事務的な、それでいて柔らかい女性の声が耳元で響き、目を醒ますと幾つものまばゆい照明が目に飛び込んで来ました。青い布に包まれた私は手術台の上で脚を広げられたままの体勢で、下腹部にじわりと広がる痛みを知りました。声の主は手際良く私を担架に乗せ、薄い桃色の壁で囲まれた部屋の硬いベッドの上に私を寝かせます。
「何かあったら枕元のコールで呼んで下さい。夕方までには帰れると思いますから」
 忙しなく踵を返して去って行く白衣の背中を眺めながら、ぼやけた意識が下腹部の痛みによってはっきりと覚醒して行くのを感じていました。私はまた一人きりになってしまった。日暮れの影を目で追っていたはずなのに、いつの間にか視界が滲んで行きます。目を閉じると広がるあの白い部屋。私は清潔なにおいのする枕に落ちた水滴の冷たさを頬で感じながら、少女の行方を追っていました。



(2010/4)
 

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2010年04月01日 (Thu)

 車体の大きな揺れと鼓膜を裂くような金属音、満員電車の中の乗客の悲鳴で、自分が人身事故で死んだ人間であるということを思い出しました。この衝撃は私が起こしたものです。十年前、中学生だった私は塾に向かう途中、地下鉄の線路に飛び込みました。自分の意思で飛び込んだのか、それとも誰かに押されて落ちたのか定かではなく、それでも当時の私ははっきりと「死」に対する強い憧れと羨望を抱いていて、もし落ちたのがその瞬間でなくとも確実に現在この世には居なかったと言い切れます。
 私はそんなことなどすっかり忘れて、十年もの間何事も無かったように生活していました。両親も妹も二匹の飼い猫も、私の存在を以前と変わらずに扱っていたように見えるし、私は毎日学校に行き、年度が変わる毎にクラスメイトの顔が違っても何も思うことなく、それがごく自然なことであるかのように受け入れていました。もともと私自身の存在感は皆無に近く、家族の間でも疎まれ相手にされず、学校では既に亡き者とされ、私が死んだところで現実は何一つ変わらないのでした。
 満員電車の中で佇む私は十年前と同じセーラー服のままで、車両の端、隣接する車両との連結部分のすぐそばで、俯きながら身をこごめて辺りの状況を窺っています。学校帰り、あの日と同じ塾に向かう地下鉄の中で起きた人身事故によって引きずり出された記憶は、現在の私の存在自体を否定するものばかりでした。全世界から自身を否定されても自分だけは肯定してあげよう、誰も私を愛してくれなくても私だけは私を愛してあげよう、そう強く考えていた十年前の幼い私さえも否定するそれらの記憶を直視することはあまりに残酷で、私は頭を抱えてその場にうずくまりました。誰もそんな私に気が付きません。私は既にこの世に存在していない存在ですから当たり前です。それでもその事実が更に追い打ちを掛け、頭痛はひどくなるばかりです。目の前に並んだ足をぼんやりと眺めながら、如何にしてこの現実から目を逸らせば私は楽になれるのか、そればかりを思案しました。
 立ち往生している地下鉄の中で、乗客たちは待ちぼうけています。急速に広がった緊張感の中にじわじわと生まれる無数の溜息、憂い、じっとりと滲む汗。何だか私は申し訳無い気持ちになりました。あの日、私が飛び込まなければこんなことにはならなかったのに。
 そのうちに乗客の中から自身の感情を抑えきれない人が出て来ます。人身事故によって生まれたストレスと不満を目に見える形で表現し始める人たちです。ごめんなさいごめんなさい。私は何度も謝りました。当然のことながら私の声は届くはずもなく、車内の緊張は濃くなるばかりです。
 そんな時、隣の車両の連結部分のそば、私のはす向かいに位置するところにうずくまる小さな女の子を見付けました。小学校低学年と思しきその少女は、黄色い帽子を被り赤いランドセルを背負って、私と同じように身を縮めて頭を抱えています。私は無意識のうちに手を伸ばしていました。何だかその女の子を放っておけない気持ちになったのです。少女の黄色い帽子に触れると、彼女は不安げな瞳でこちらを見上げました。
「大丈夫だよ」
 何の根拠を持ってその言葉を放ったのか自分でもよく分からないまま、連結部分の不安定な金属板の上で彼女を抱き締めました。必死でしがみついて来る彼女を壊さないよう、何度も「大丈夫大丈夫」と呪文のように、まるで自分自身に言い聞かせるように繰り返します。
 私の腕の中で震える少女を見ていると、更に古い記憶が呼び起こされました。この少女と同じくらいの年の頃、小学校の帰りに知らない男の人に呼び止められ、そのまま、手を引かれるまま地下鉄に乗ったのです。そして起こった人身事故。その日も誰かが、もしかすれば私自身だったかも知れない誰かが地下鉄に飛び込んで、車内は今と同じような緊張感に包まれました。そこで私は酸欠状態で気分が悪くなり、うずくまって頭を抱えていたのでした。あの日のセーラー服のお姉さんは私自身だったのでしょうか。私は私に救いを求め、私に救われたのでしょうか。
 小学生の私と中学生の私を、二十五歳になった私が見ています。彼女たちは現実を直視出来ぬまま、状況を把握出来ぬまま震え、それでも何とか現実にしがみついています。私は私が死んだ人間であることから目を逸らし、私の気付かないうちにいつの間にか大人になってしまっていました。あの日、地下鉄に飛び込んだ私は「死」に対して僅かな希望を抱き、絶望に満ちた世界を壊すためにホームから飛んだのです。列車にぶつかった衝撃でそんなことすらもすっかり忘れていたようです。中学生の私にとって唯一の希望が「死」だった。十年も前にその望みは叶えられていたのに、何故こんなにも長い間それに気付かなかったのでしょう。
 車内の空気がどんどん薄くなって行きます。その中で一つの秩序が乱れ始めた時、ようやく列車は動きだしました。ゆっくりと進む車内は、安堵の溜息によって更に酸素濃度を薄くさせます。でもあと少しで駅に着く。皆それを知っています。
 列車の復旧と遅れを知らせるアナウンスがホームに響き、ようやく人々は解放されました。我先にとドアに流れ込む人の波の後ろから、少女の手を引いて外に出ようと立ち上がった瞬間、彼女の姿は消えていました。腕の中に残ったぬくもりを確かめるように手のひらをじっと眺めていると何だか涙が溢れそうになります。ドアが閉まるアナウンスが車内に響いて、私は慌ててドアの外に飛び出しました。
 ホームに降りた途端、新鮮な空気が肺いっぱいに流れ込み、何もかもから解き放たれた気分でした。現実に思い残すことなど何も無く、この世に存在しない私が現実世界にとどまっていても苦しみは終わらない。
 後続の車両がホームに滑り込むように入って来るのを目の端で確かめると、私はもう一度身を投げました。やっと楽になれる。やっと現実から離れられる。さよなら世界。長い夢が終わります。



(2010/4)


 

2010年03月31日 (Wed)
 家の中が血のにおいで満ちているのは今日に限ったことではなく、最早日常的な光景でありまして、頭から血を流し目からは涙を流し、口からは既に言葉で無くなった叫びとも嘆きとも言えるものたちが母から弱々しく飛び出して行きました。私は何も出来ず、何も言わず、何もせず、帰宅したことを兄に悟られないよう忍び足で廊下をゆっくりと慎重に、心臓が打つ鼓動に合わせ、滑るように渡りきりました。内側から鍵を掛け、ミッションコンプリート。居間からは兄の罵声と母の悲鳴、何かが壊れる音。どうにかしなければならない、どうにかしなければ、私が動かなければ母が死んでしまうのは時間の問題です。それでも私がどうにも出来ない、どうにもしないのは、私とあの二人は他人だからです。血が繋がっているというだけの関係、家庭という名の監獄。監獄での生活に飽きた兄は監獄を支配している母に対して下剋上を起こし、監獄から出ようと必死なのです。血縁関係ですべてを支配出来ると思ったら大間違い、母の独裁政権は下剋上によって呆気なく崩壊しました。私は兄に加担する気も母を救助する気もありません。自分以外の人間は皆他人、他人と他人の間で起こった紛争にわざわざ割り込むなど、お節介以外の何物でもありません。私はお節介が嫌いです。他人に干渉されるのが嫌いです。私の生活をじっとりと鑑賞され勝手に感傷的な気分に浸られても困ります。自己満足のために私に哀れみと侮蔑の視線を送るクラス担任。知っています。あなたが至極一般的な家庭に生まれ育ち何の不幸も無く公務員という安定した職業に就き、幸せな結婚をして可愛い子供たちにも恵まれ、それでも何か刺激が足りなくて退屈な日々に差し込む一筋の不幸を探してうずうずしていることを。そこに現れた格好の標的、サンプルが私です。母子家庭というだけでもそこに不幸のにおいが渦巻いているのに、更には引きこもりの息子といじめに遭い保健室登校をしている娘、パートで得た僅かな収入で公営住宅に住み、車も無く貧困の底で地味に生活を送る、まさに低所得者層のサンプルのような家庭。これを発見した時担任は小躍りしたことでしょう。何かにつけ目を掛けているふりをしながら監獄の内情を聞き出そうと必死です。私がそれを拒絶すると憐憫の眼差しをこちらに投げ掛け、あれやこれやと騒ぎ立てる。私は知っています。あなたが興味を持っているのは私自身では無く私の身に降りかかる絵に描いたような不幸であることを。私があなたに救いを求めたところで現実は何一つ変わらず、監獄の秩序は今以上に乱れ、その様を存分に楽しんだのち勝手に去って行ってしまうことを。
 私だってこんな地獄みたいな家に好きで生まれた訳ではありません。あわよくば監獄から抜け出そうとタイミングを窺っています。例えばもし兄が母を殺してしまったら、私はこの世にたったひとりきりになることでしょう。天涯孤独の可哀想な女子中学生としてきっとどこかの施設に入ることになります。私の未来などこの家に生まれ落ちた時点で真っ黒に塗り潰されていることは分かっているのですから、どうせなら真っ黒な未来を更に塗り潰す覚悟で兄と一緒に母を殺してしまうのが一番良い方法なのかも知れません。それでも私が何もしないのは、自分の手を汚したくないから、という単純な理由だけで、面倒なことはすべて兄に任せ甘い蜜だけ吸ってやろうという私の性格の悪さ、強かさを露呈しています。もう、何もかもが面倒なのです。誰かを殺すことも、自分を殺すことも、それにまつわる全ての事例が面倒くさい。現実を憂いて特急列車に飛び込むくらいの勢いがあれば良いのですが、私にはその勇気すらも無い。つまりはヘタレ、ただの弱い人間です。
 部屋の扉の前でうずくまり耳を塞いでいるふりをしながら外の世界に耳を傾けていると、兄の部屋の扉が閉まる音がしました。居間からは母の低いうめき声、このまま放置していたら母は死ぬでしょうか。何もしない私は母を見殺しにするということになりますか? ただ傍観しているだけ、何も知らないふりをしているだけ、それだけで母を殺すことになりますか? 殺人者になりますか? 他人と関わりを持たず自分の世界の中だけで生きて行きたいのに、それが私の一番の幸せなのに、現実はそれすらも許してくれないのですね。
 音を立てないようにゆっくりと鍵を回し、扉を開けました。濃度を増した血のにおいが鼻をつき、込み上げてくる吐き気を抑えきれなくなった私はその場に吐瀉物を撒き散らしました。兄の部屋の扉が開く音、隙間からこちらを覗き、私の動向を窺っている兄のいやらしい視線が突き刺さります。血のにおいとすえた吐瀉物のにおいとが混ざり合って、更に胃は痙攣し続けます。何度も上下する体、まるで自分の体ではなくなってしまったように、それこそポンプのように胃液を吐き出す私という肉の塊。荒くなった呼吸に合わせ口元の水分を制服の袖で拭き取り、這いつくばるようにして母の元へ向かいます。辺りに散らばった血の塊は新しいものから古いものまで、よくもまあ母はまだこんな状態で生きていられるなあと感心してしまうほど多量にこぼれていて、割れた皿の破片と伸びきったビデオテープ、血の染み込んだ週刊少年ジャンプ、「かわいいおべんとう 365日」という母の本、壁を向いたままのブラウン管、放り込まれたままの洗濯物に埋もれるようにして母は倒れていました。
「大丈夫? 救急車呼ぶ?」
 事務的に私は声を発します。乾いた声は血と吐瀉物のにおいとすべてを諦めてしまったような夕方の眩しい西日で充満した部屋で空回りました。ああ、これがすべて夢なら良いのに。初めから私という存在は無く、この家には兄と母の二人きり、二人の間に起こる紛争は二人の間で解決して下さい。それが母の死という形で終わりを迎えようと、私は存在していない存在で、母の子供でも兄の妹でも無いのだから全く関わりを持たずに居られます。何も知らず、何も見ないまま、私でない私は過ごすことが出来ます。しかし現実は無情にも私に私という存在を知らしめ、苦しめます。虚ろな目で首を横に振る母を抱え、既に固まり始めた血液を洗濯物のタオルで拭い、部屋を片付け始めました。
「ごめんね」
 母の声が同じように空回り、私は聞こえないふりをしながら黙々と足元に転がる血のにおいのするものたちを拾い上げます。窓を開け新しい空気を部屋に取り込むと淀んだ部屋に漂う悲壮感は更に増し、きらきらと輝く夕日を拒絶するかのように台所は暗く闇に沈んでいます。今ここでベランダの柵を乗り越えたら、私は楽になるでしょう。高層十一階建ての最上階の小さな部屋、真下に広がるアスファルト。この柵が今私を天国と地獄に分けています。それでもやっぱり私にそこを飛び越える勇気は無く、地獄にとどまり続けるしか方法を知らない私は窓を閉め、カーテンを閉め、吐瀉物のにおいのする制服を脱ぎました。現実には終わりが無く、日常は残酷に時を重ねます。変わらずに明日はやって来て、担任はいつものように好奇の目で私を見るでしょう。この世は地獄です。それ以外の言葉を私は知りません。



(2010/3)

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プロフィール
HN:
原発牛乳
年齢:
39
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
職業:
自由人
趣味:
眠ること
自己紹介:

ただのメモです。


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