だからさ、もう本当そういうのは馬鹿げてると思うわけ。だって考えてもみろよ。明らかにおかしいだろ?何でそういうのに騙されちゃうのかなあの人たちは。あーもう嫌だ、行きたくない。世知辛い世の中だよな。浪人生の人権なんてあって無いようなもんだよ。
朱色の空に紺色がうっすらと混じり始める頃、今日もあいつは黙って俺の話を聞いている。にこにこと屈託の無い笑みを浮かべながら、俺の手のひらをゆっくりとさするんだ。
もう行くのやめようかな。どんだけ勉強したってアホには違いないんだし、今以上の結果が出るわけがないんだ。何のために勉強して来たんだろう。そんなのもう忘れちゃったよ。今日みたいな日もいつか笑い話に変わったりするんだろうか。遠い未来のことなんて考えられないよ。
あいつは俺の顔をじっと見て、うんうんと頷いた。白いイヤーマフは夕闇に照らされて自在に色を変える。これは俺がプレゼントしたものだ。あいつは涙を流して大袈裟に喜び、それから毎日イヤーマフを着けて来るようになった。
なあ、いつもありがとうな。いつも話聞いてくれてありがとう。お前が居なかったら俺はとっくに首を吊ってた。受験ノイローゼってな。ははは。笑えねーか。
あいつの手のひらが俺の頭の上に乗せられた。幼い子供をあやすように「いいこいいこ」をする。感極まって涙が溢れ出す。情けねえ。細い指が俺の頬に伝った涙を優しく拭う。不安を顔中に浮かべたあいつに向かって、俺は無理矢理笑顔を作る。
寒くないか?大丈夫?そうか。お前の手、いつも冷たいな。今度手袋買ってやるよ。今日はこれで我慢してな。
小さな手のひらを握り、コートのポケットに突っ込む。ポケットの中で二つの手のひらが絡み合う。何でこんなに冷たいんだろう。あいつはうつむいて頬を赤らめる。それを見るたび、少しだけ速度を増した血液が体中を駆け巡る。頬が赤いのは夕日の所為かも知れないけれど。
よし、じゃあそろそろ帰るか。また明日な。いつもありがとう。
辺りが紺一色に包まれたのを見計らって、俺は立ち上がる。あいつもつられて立ち上がり、にこにこと頷く。そしてイヤーマフを外し、髪の毛を掻き上げて平らな顔の側面を露わにする。あるべきはずの場所に無い、あいつの体の一部。俺はいつものように平らかなそこを撫で、唇を近付ける。
大好き。愛してる。俺から絶対離れるな。
そう言うとあいつは顔中を真っ赤にして下を向いたまま何度も首を縦に振るんだ。聞こえているはずなんてないのに。
あいつを家の前まで送り、街灯に照らされた住宅街を歩く。俺が居ない間、あいつの冷たい手のひらを温めてくれる極上の手袋を買うために、思い直して駅に向かった。あいつの真っ白な耳のようにのっぺりとした月が、俺の前に大きな影を作る。
(2010/1)
ただのメモです。