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世界の終わり。
2025年07月05日 (Sat)
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2010年02月26日 (Fri)

 家を出た時、まだ雨は張り付くような霧雨で、音も無く静かに膜を作っていた。もうじき二歳になる彼女の娘が寝付いたのを見計らい、小さな部屋の鍵を閉める。夫は夜勤で明日の朝七時過ぎまで帰らない。最近やっと朝まで寝てくれるようになった娘が夫の帰宅まで目を覚まさないことを祈りながら、玄関の隅に置いてあったビニール傘を差し、外灯の少ない道を歩く。義父母は熟睡しているはずだ。離れである家族三人の住処は、母屋から二十メートルほど奥まった場所にある。なるべく足音を立てないように、庭の砂利を踏みしめながら歩いた。
 家の前を通る農道に車は無い。昼間でも一時間に十台も通らないほどの閑散とした道だ。娘が生まれたばかりの頃はよく農道の脇を散歩したっけ。梅雨に入ったばかりの今の季節は、夜になればまだ寒い。彼女は薄いTシャツにパーカーを羽織っただけの姿で出て来たことを、少しだけ後悔した。それでもやはり彼女の頭の中を占めているのは娘のことばかりで、布団を蹴飛ばしていないだろうか、寒くて泣いていないだろうか、おむつは濡れていないだろうか。自分のことよりもひどく気に掛かった。この調子ならば一緒に連れて来た方が良かったかも知れない。否、娘が居てはきっと決心は揺らいでしまう。娘の人生までを巻き添えにしてはいけない。余計な思考を振り落とすように、彼女は早足で歩いた。ビニール傘の上に雨だれが色の無い水玉模様を作って行く。
 駅までは歩いてちょうど一時間。山と田畑に囲まれた小さな村の中の、小さな無人駅。終電は午後八時半。週に三度だけ深夜に貨物列車が通過する。「棚田が美しい町」と書かれた、駅構内の色褪せたポスターを思い出す。駅から棚田は見えないのに。
 農道に沿って山を下り始めると、次第に雨足が強くなる。傘に当たる雨音の音量が上がり、彼女はほっとする。音の変化があった方が、気が紛れるものだ。
 この山村に嫁いでもう四年が経った。彼女の世界には夫と娘と義父母しか住んでいない。何日かおきに行く食料品の買い出しにさえ、自動車免許が無い彼女は夫に頼らなくてはいけない。住居を別にしてはいても、義父母とは毎日顔を合わせる。もともと人間関係に悩みを多く抱いて人生を送って来た彼女にとって、全くの他人である夫の両親と生活を共にすることは苦痛以外の何ものでも無かった。よく四年も耐えたものだと思う。
 両脇を棚田に挟まれた、新しく舗装されたばかりのアスファルトの道は不自然極まりない。有機物と無機物が並行して走っている、奇妙な感覚。他にも、最近出来た二階建てのショッピングセンター。田んぼの真ん中に突如として現れるそれは、人間の欲望と理不尽さ、無慈悲の塊のように思え、夫に誘われても行く気にならなかった。彼女は特別自然を愛護したりするような人種では無かったけれど、あれだけ村の中に大きな建物を建てることに反対していた人たちが、手のひらを返したようにこぞってショッピングセンターに向かう様が目も当てられないほど痛々しく思った。矛盾だらけ。それが人間であることも彼女は知っている。それでも、あからさまなその態度の変化には吐き気を催さずにはいられなかった。
 三十分以上歩いただろうか。ふもとにはショッピングセンターの駐車場が遠くに見える。だだっ広い駐車場に車は無く、緑の中にぽっかりと穴を空けたその空間に吸い込まれて行きそうな感覚を振り払うかのように、彼女は立ち止まって深呼吸をした。
 目的地まではあと少しだ。雨は強くなったり弱くなったり、たまに止んだりしている。傘を除けて空を見上げると、重く湿った雨の夜の空気が彼女の全身に降り注いだ。その場に傘を捨てる。湿気と汗で、腋には汗をかいている。身軽になった彼女は更に早い足取りで歩を進める。もう少しの辛抱だ。
 目的地に着いた彼女は、その場に立って辺りを見渡した。駅から約三百メートル、外灯は遥か遠く、暗闇で足元を見ることすらままならない。夜に慣れた目は僅かな輪郭を察知し、彼女に伝える。かがみ込み手のひらを伸ばすと、冷たく濡れた金属に触れた。
 雨が少しずつ激しくなってきた。彼女はゆっくりと寝転がる。硬い枕木が背骨に当たる。位置を調整して、目を開けた。黒とも青とも灰色とも言い難い、深い闇の世界がそこには広がっていた。
 娘のことが頭をよぎる。昼間、夫のために作ったおにぎりを手のひらでぐちゃぐちゃにして遊んでいる姿を見付けて怒鳴ってしまった。洗濯物を取り込みに、ほんの少し目を離した隙の出来事だった。娘は怯えた目でこちらを見つめ、泣き出すこともなくひたすら私の顔色を窺っていた。分かっているのだ。娘の手の届く場所に置いてしまった自分に落ち度があること、娘は何も悪くなど無いこと。しかし、その娘の目は紛れも無い幼い頃の彼女自身の怯えた瞳であり、大人に対する恐怖しか無かったあの日々のことが嫌でも再生された。記憶を掻き消すように彼女は娘を罵倒する。目に涙を浮かべ、必死になって耐えている姿は彼女だ。テーブルの上で座り込んでしまった娘を思い切り突き飛ばす。転げ落ちた娘は大きな声を上げて泣き叫ぶ。泣き声を聞いた夫が隣の部屋から慌てて駆け付けた。娘を拾い上げ、あやしながら彼女に対して彼女が今娘に言い放ったのと同じ言葉で罵倒する。しゃくり上げている娘を抱いて夫が部屋から消える。母屋に行ったのだ。そして、義父母に彼女の失態を言い付けることであろう。
 それはもう既に彼女の日常に組み込まれていることで、直後に彼女がひどい自己嫌悪に苛まされることも、次に義父母に会った時には更にひどい言葉を浴びせられることも、ねちねちと夫に嫌味を言われ続けることも、容易に予想出来た。この家の中で、彼女だけが他人だ。それを理由に彼女はいつも悩み、苦しんでいた。苦しみから解放されようと、夫に家を出ることを提案したこともある。でも、「長男だから」というどうしようもない事実を盾に、夫は彼女の話を聞くことすらしなかった。
 娘にはひどいことばかりしてしまった。その一つ一つを思い出すたびに胸が苦しくなる。毒にしかならない母親のもとで日々罵倒されながら生活するよりも、愛してくれる家族の中で成長した方がずっと良いのだ。それは彼女自身の経験からよく知っていた。
 顔に当たる雨の粒が大きくなり、思わず彼女は目を瞑る。あと少し、あと少しだ。頬を流れた水滴が、雨なのか涙なのか判別出来ないほどに雨は激しくなっていた。
 遠くに光が見えた。思わず息を止める。両手を胸の上で組み、頭の中に真っ白いキャンパスを描いて恐怖から逃れようとする。しかしそのキャンパスの上には、娘の顔が自動的に描かれて行く。鮮明に、幾つも幾つも消しては浮かび、彼女は歯を食いしばる。光と共に貨物列車の轟音が近付く。彼女は何度も娘に謝罪する。ごめんね、愛してあげられなくてごめんね、優しく出来なくてごめんね、ひどいこと沢山言ってごめんね、いっぱい傷付けてごめんね、成長を見届けてあげられなくてごめんね、自分勝手な母親でごめんね。優しいパパとおじいちゃんおばあちゃんに愛情を沢山貰うのよ。
 光と音が彼女を飲み込む。雨だれの中に彼女は溶け、水蒸気となり闇になった。彼女の謝罪は天に昇り、白いキャンパスは赤く汚れる。娘の上に、そして彼女自身に静寂が再び下りる。



(2010/2)


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