世界の終わり。
――ぼくらにはもう何もないんだ。
薄闇の中に、ロビンの低い声が響いた。数時間ぶりに発せられた声は少し掠れているようで、言葉のあとに続けて小さな咳ばらいをした。
手探りでペットボトルの水を見付け、ロビンに手渡す。一口飲んでゆっくりと足元に置き、何度か咳ばらいを繰り返してようやくいつもの声に戻った。ごめん、と呟く。
――最後に何か見たいものはある?
少し考えてはみたものの、何も思い浮かばなかった。この生活を続けてもうどれくらい経ったのだろう。家族の顔すら忘れてしまった。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、妹。飼い猫のジャムとピンク。最後に見たいものは家族の顔ではないということだけは明確だった。
しばらく考えていると、ロビンの冷たい手のひらが私の頬に触れた。暗くて顔はよく見えないけれど、きっと笑ってはいない。悲しそうな顔で私の目を見つめているに違いない。
手首を掴み、手の甲にそっと口づけをする。唇に冷たさが伝わるほど熱の無い手。
ベッドと本で部屋の半分以上が埋まってしまうこの空間で、私とロビンは呼吸を重ねている。ロビンは日本人なのに、僕はロビンだ、と名乗った。本当の名前が嫌いだと言っていた。
もう何年か前に出会った私たちは、寒い冬の勢いに任せて共同生活を始めた。私は家族が嫌いで、学校も嫌いで、友達は居なかった。十歳にして絶望というものを毎日噛みしめていた。誰かがこのつまらない日常から連れ出してくれることだけを祈り、夢ばかり見ていた。そこに現れたのがロビンだった。
――西嶋レンちゃんだね。いつも君のことを見ていたよ。
青い帽子を被った背の高い男はそう言って、私の手を引いた。
「もしかして誘拐してくれるんですか?」
ロビンは一瞬驚いたような顔をしたが、ゆっくりと口元を動かし、そうだよ、と答えた。
恐怖など何も無かった。殺されても構わないと思っていた。無理矢理犯されてバラバラに切断されても、この腐った世界に生きているよりはましだと思った。
カーテンを閉め切った、薄暗いアパートの一室。蛍光灯は取り外されている。
――眩しいのは苦手なんだ。
私も、そう言うとロビンは大きな手のひらで私の頭を撫でた。安堵の溜息が漏れる。来るべき場所に来たような、居るべき場所に戻ったような。
それから私はロビンの部屋から一歩も出ていない。食べるものは十日に一度、ロビンが外から調達してくる。ロビンは大人なのに働きもせず、ずっと部屋に居る。本を読むときだけ小さな照明を点ける。それ以外はカーテンの隙間から差し込む僅かな光だけでお互いの姿を確認する。
私たちは何日もそうやって暮らした。二人が横になればいっぱいになってしまう小さなベッドに寝そべって、ロビンの本を借りて読むのはとても楽しかった。私が生きてきた十年ちょっとの時間の中で、初めて「楽しい」という感情を体感したかも知れない。
ロビンは私を殺したり無理矢理犯したりすることは無かった。そばに寄って不意に手が触れただけでも、ごめん、と謝った。
――何もなくなってしまった。
もう一度ロビンがそう言った。貯金が尽きたのかも知れないし、アパートを追い出されることになったのかも知れない。事情は分からないし、聞いてもきっと本当のことは教えてくれない。私は頷いてロビンの手のひらを握った。
――君さえ居てくれればそれで良いと思っていた。でも、そういう訳には行かなくなってしまった。僕は最低な人間だ。君の未来まで奪おうとしている。
淡々とした口調で言葉を繋げる。それはまるで子守唄のように暖かく、希望に満ち溢れている。
私はロビンの首に手を回して抱き付いた。ロビンはそれを振り払おうとして拒絶したけれど、私は無理矢理体を寄せた。小さな嗚咽を上げるロビンの頭をそっと撫でる。いつも私にしてくれていたように。
「大丈夫だよ。私をあなたが望む未来へ連れて行って。二人ならきっと怖くないよ」
叫び声に似た嗚咽を上げながら、ロビンは私の体を力無く抱き締めた。抱く、というよりは、触れる、という表現の方が近いかも知れない。弱々しく、それでも私の自由を奪える程度に。
――ひとりはとても寂しかった。だから君をここへ連れて来た。君が居てくれて本当に良かった。君が居なければ僕はもうとっくに死んでいた。生きていたって何の役にも立たない人間だけれど、ひとりで死ぬのは怖いんだ。
ロビンの額に私の額を重ねる。長く伸びた前髪が二人の邪魔をする。ゆっくりと髪の毛を掻き上げると、額から少しの熱が伝わってきた。
僕はいつまでも生きていられない。誘拐という立派な罪を犯してしまったし、今更社会に出てどこかに就職する手立てもない。でもひとりにはなりたくない、ひとりはとても怖いんだ。
もういいよ、大丈夫だよ。何度も同じ言葉を重ね、ロビンの頭を撫でた。長い沈黙が訪れたあと、ロビンの額に口づけをすると、小さく声を上げて笑った。
小さな照明を点け、狭いベッドに横になる。手のひらを重ねて天井を見上げた。山積みになった本の影が映る。
「ありがとう」
そう言うとロビンが私の手のひらを強く握った。握り返そうとしたけれど、さっき大量に飲んだ白い錠剤の所為か体に力が入らなかった。ゆっくりと目を閉じ、ロビンの体温を感じる。夢の続きを見るように、全身が柔らかな光に包まれる。私たちはそのまま、二度と醒めない眠りに落ちて行った。
(2009/12)
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1984/09/21
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