車体の大きな揺れと鼓膜を裂くような金属音、満員電車の中の乗客の悲鳴で、自分が人身事故で死んだ人間であるということを思い出しました。この衝撃は私が起こしたものです。十年前、中学生だった私は塾に向かう途中、地下鉄の線路に飛び込みました。自分の意思で飛び込んだのか、それとも誰かに押されて落ちたのか定かではなく、それでも当時の私ははっきりと「死」に対する強い憧れと羨望を抱いていて、もし落ちたのがその瞬間でなくとも確実に現在この世には居なかったと言い切れます。
私はそんなことなどすっかり忘れて、十年もの間何事も無かったように生活していました。両親も妹も二匹の飼い猫も、私の存在を以前と変わらずに扱っていたように見えるし、私は毎日学校に行き、年度が変わる毎にクラスメイトの顔が違っても何も思うことなく、それがごく自然なことであるかのように受け入れていました。もともと私自身の存在感は皆無に近く、家族の間でも疎まれ相手にされず、学校では既に亡き者とされ、私が死んだところで現実は何一つ変わらないのでした。
満員電車の中で佇む私は十年前と同じセーラー服のままで、車両の端、隣接する車両との連結部分のすぐそばで、俯きながら身をこごめて辺りの状況を窺っています。学校帰り、あの日と同じ塾に向かう地下鉄の中で起きた人身事故によって引きずり出された記憶は、現在の私の存在自体を否定するものばかりでした。全世界から自身を否定されても自分だけは肯定してあげよう、誰も私を愛してくれなくても私だけは私を愛してあげよう、そう強く考えていた十年前の幼い私さえも否定するそれらの記憶を直視することはあまりに残酷で、私は頭を抱えてその場にうずくまりました。誰もそんな私に気が付きません。私は既にこの世に存在していない存在ですから当たり前です。それでもその事実が更に追い打ちを掛け、頭痛はひどくなるばかりです。目の前に並んだ足をぼんやりと眺めながら、如何にしてこの現実から目を逸らせば私は楽になれるのか、そればかりを思案しました。
立ち往生している地下鉄の中で、乗客たちは待ちぼうけています。急速に広がった緊張感の中にじわじわと生まれる無数の溜息、憂い、じっとりと滲む汗。何だか私は申し訳無い気持ちになりました。あの日、私が飛び込まなければこんなことにはならなかったのに。
そのうちに乗客の中から自身の感情を抑えきれない人が出て来ます。人身事故によって生まれたストレスと不満を目に見える形で表現し始める人たちです。ごめんなさいごめんなさい。私は何度も謝りました。当然のことながら私の声は届くはずもなく、車内の緊張は濃くなるばかりです。
そんな時、隣の車両の連結部分のそば、私のはす向かいに位置するところにうずくまる小さな女の子を見付けました。小学校低学年と思しきその少女は、黄色い帽子を被り赤いランドセルを背負って、私と同じように身を縮めて頭を抱えています。私は無意識のうちに手を伸ばしていました。何だかその女の子を放っておけない気持ちになったのです。少女の黄色い帽子に触れると、彼女は不安げな瞳でこちらを見上げました。
「大丈夫だよ」
何の根拠を持ってその言葉を放ったのか自分でもよく分からないまま、連結部分の不安定な金属板の上で彼女を抱き締めました。必死でしがみついて来る彼女を壊さないよう、何度も「大丈夫大丈夫」と呪文のように、まるで自分自身に言い聞かせるように繰り返します。
私の腕の中で震える少女を見ていると、更に古い記憶が呼び起こされました。この少女と同じくらいの年の頃、小学校の帰りに知らない男の人に呼び止められ、そのまま、手を引かれるまま地下鉄に乗ったのです。そして起こった人身事故。その日も誰かが、もしかすれば私自身だったかも知れない誰かが地下鉄に飛び込んで、車内は今と同じような緊張感に包まれました。そこで私は酸欠状態で気分が悪くなり、うずくまって頭を抱えていたのでした。あの日のセーラー服のお姉さんは私自身だったのでしょうか。私は私に救いを求め、私に救われたのでしょうか。
小学生の私と中学生の私を、二十五歳になった私が見ています。彼女たちは現実を直視出来ぬまま、状況を把握出来ぬまま震え、それでも何とか現実にしがみついています。私は私が死んだ人間であることから目を逸らし、私の気付かないうちにいつの間にか大人になってしまっていました。あの日、地下鉄に飛び込んだ私は「死」に対して僅かな希望を抱き、絶望に満ちた世界を壊すためにホームから飛んだのです。列車にぶつかった衝撃でそんなことすらもすっかり忘れていたようです。中学生の私にとって唯一の希望が「死」だった。十年も前にその望みは叶えられていたのに、何故こんなにも長い間それに気付かなかったのでしょう。
車内の空気がどんどん薄くなって行きます。その中で一つの秩序が乱れ始めた時、ようやく列車は動きだしました。ゆっくりと進む車内は、安堵の溜息によって更に酸素濃度を薄くさせます。でもあと少しで駅に着く。皆それを知っています。
列車の復旧と遅れを知らせるアナウンスがホームに響き、ようやく人々は解放されました。我先にとドアに流れ込む人の波の後ろから、少女の手を引いて外に出ようと立ち上がった瞬間、彼女の姿は消えていました。腕の中に残ったぬくもりを確かめるように手のひらをじっと眺めていると何だか涙が溢れそうになります。ドアが閉まるアナウンスが車内に響いて、私は慌ててドアの外に飛び出しました。
ホームに降りた途端、新鮮な空気が肺いっぱいに流れ込み、何もかもから解き放たれた気分でした。現実に思い残すことなど何も無く、この世に存在しない私が現実世界にとどまっていても苦しみは終わらない。
後続の車両がホームに滑り込むように入って来るのを目の端で確かめると、私はもう一度身を投げました。やっと楽になれる。やっと現実から離れられる。さよなら世界。長い夢が終わります。
(2010/4)
ただのメモです。