伸ばした手のひらの先に触れた透明な水の感触には覚えがあった。ひんやりと冷たく、長い間触れたままでいると指の先が痺れてくる。私はひとひらの水をすくい、両手の隙間からこぼした。落ちて行く液体の先にゆるやかな波紋が出来、水の輪は次第に広がって行く。何度かそれを繰り返すことで、私は私自身の記憶を呼び起こし整理しようとしていた。指先の感覚は最早無くなってしまっている。構わずに私は冷たい水を落とし続けた。
絵に描いたような絶望を味わった。私は小学生で、まさかそんな事故が自分の身に起こるとは思ってもみなかった。
そう、あれは事故だった。過ぎてしまえば断片的でしかなく、一瞬で消えてしまう速足の出来事。でも、それは故意に記憶を消しているだけであって、実際には細部まで精密に思い出せる。あの日の薄曇りの空の色や、体中に張り付くような湿気、雨のにおい、母のエプロンの模様の一つひとつを、今でも忘れてはいない。
どうして? お母さん。ねえ、お母さん、返事をして。私のことが嫌いになったの? どうして? お母さん。お母さん。
浴室の鍵は壊れていた。だから出ようと思えば容易く外に出ることが出来たのに、当時の私は知らなかった。すりガラスの頼りない扉を叩き続けた。外側からは何も音がしなかった。部屋の奥で母がまた腕を切っているのだと思った。
途方に暮れた私は、冷たいタイルの床の上に座り込んだ。天井に近い小さな窓から差し込む鮮やかな光は、追い打ちを掛けるように私の心を暗くさせた。
浴槽の中には、昨夜の残り湯がそのままになっていた。底なし沼のように口を開けた浴槽に手を伸ばし水面に触れると、私の先から輪を描くようにして水が広がって行った。私は服を着たまま、底なし沼に身を沈めた。このまま絶望に身を任せて消えてしまえば良い。
水は冷たかった。足の先がじんじんと痺れ、心臓に近付くたびに脈は早くなった。
明日のプールの授業は雨になったら体育館でのなわとびに替わる。それは嫌だなあ。ほのかな塩素のにおいがして、そんなことを思った。目を瞑って頭の先までを沈めると、世界中の音が止まった気がした。
目を覚ますと、母は私のほっぺたを叩きながら泣いていた。その後ろには父の姿もあった。二人とも私の名前を呼んでいた。私はまだ水の中にいるようで、頭がぼうっとしていた。
その事故の後遺症として、私は長い間記憶を止めておくことが出来なくなってしまった。脳の一部分が死んでしまった、と医者は言った。
私は消してしまった記憶を修復するように、時々こうして水に触る。水はいつも冷たい。そして、あの日の出来事を思い出し、後悔する。でも、どうせすぐに忘れてしまうのだ。
(2010/5)
ただのメモです。