私の番が回って来た。前髪の先から落ちる水の粒を見て知る。
「きゃははははは」
「調子乗ってんじゃねーよバーカ!」
聞き覚えのある声。それからバケツが床を転がる乾いた音、ドアを蹴る轟音、遠ざかる足音、耳鳴り。昼休みが終わるチャイムが鳴るまで動けなかった。泣くことも出来ず、ひたすら便器の前に佇んでいた。
ターゲットは定期的に変わる。クラスの女子十八人のうち、順番が回って来ないのは教祖であるリエ一人だけ。そう、これはある種の宗教だ。絶対的な力によって動かされる、思考外の行動、独裁政権。リエはいつもにやにや笑っている。自分の手は汚さない。昨日までは私もリエの政権下で違う女子を傷付けていた。今は逆の立場だ。
「いい気味だよね」
教室に入った途端、会話が止まった。昨日までターゲットだったミホは、私と目が合うとすぐに視線を逸らした。
こうして儀式が始まる。教祖の教えに背いたが最後、卒業まで永久に追放される。存在は無きものとされ、誰とも話せない。いじめという一辺倒な儀式を受けることよりも関わりを持てないことの方が怖い私たちは、教祖に逆らうことなど出来ない。ターゲットでいることは永遠じゃない、終わりがある。教祖はそれを見て楽しむ。一人だけ。
その日も私は窮地に立っていた。教室の窓の外に下げられたリエの体操袋を取りに行かなければいけない。私は高所恐怖症で、ここは四階だ。雨まで降っている。窓から身を乗り出して、ようやく袋に届くかどうか。私は涙を浮かべながら許しを乞うた。教祖は首を横に振る。信者は罵声を浴びせる。いつもの光景。大人たちの知らない世界。
どんよりと垂れ込めた灰色の雲が、私の気持ちを更に暗くさせる。昨日は手を使わずにリエのスリッパを洗った。その前は英語の授業中ずっと掃除道具入れの中に監禁されていた。雑巾のにおいがまだ髪の毛にこびりついている気がする。いつまで続くのだろう。これが終わっても、またいつ順番が回ってくるか分からない恐怖に怯えて生活をしなければならない。生き地獄だ。頭の下のアスファルトを見つめて思う。
「こら! 何をしている!」
教室の外から声が響いて救世主が現れた。いつもは大嫌いな体育の宮村だけど、助けてくれるなら今は誰でも良い。蜘蛛の子を散らすように皆窓から一斉に離れる。
「松尾、お前いい加減にしろよ」
いきなり名前を呼ばれたリエは、恐怖に満ちた表情を浮かべながら教室の外に飛び出した。追い掛ける救世主、逃げる教祖。運が良かったのか悪かったのか、廊下は雨でひどく濡れていた。
「いつまでも調子乗ってんじゃねーぞ!」
不良少年のような救世主の叫びに続いて、湧き上がる悲鳴。リエは階段から足を滑らせて落ちた。更に運が悪く、踊り場のコンクリートで思い切り頭を打った。
教祖が死んだことを聞かされたのは翌日になってからだった。救世主は学校を辞めた。もう順番が回ってくることはなかった。
(2010/5)
ただのメモです。