花火大会に行こう、と提案したのは薫だった。人ごみが大の苦手で貧血持ち、すぐに風邪をひく虚弱体質、そもそも家からほとんど出たがらない薫がそんなことを言うなんて思ってもみなかった私は
「無理しなくていいんだよ?」
と何度も確認した。
「無理はしないよ。たまにはカップルっぽいことしたいじゃん」
そう薫は笑ったけれど、花火大会に向かう電車の中で既にぐったりしている薫を見て、やっぱり止めれば良かったと後悔した。
駅を出ると、歩行者天国になっている大通りには老若男女、数えきれないほどの人の群れが黒々とした波を作っている。その脇を固める色とりどりの屋台たちは、道の終わりまで果てしなく続いているかのように見えた。
「あ、わたあめ売ってるよ。杏子、わたあめ好きだったよね」
満員電車から解放され少しだけ顔色を取り戻した薫は、私の手を引いてわたあめの屋台に向かって歩く。そういえばこんな風にデートをしたのは何ヶ月ぶりだろう。どこかに出掛けても薫がすぐ体調を崩してしまうせいで、ちゃんとデートをした回数なんて片手で数えるほどしかない。
「はい」
薫から渡されたわたあめの袋を受け取ると、私は自然と笑顔になった。しかし薫の額には尋常じゃない数の汗の粒が浮いている。唇は震え、顔は真っ青だ。
「ちょっと、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「いや、うん、大丈夫。……じゃないかも」
言い終えるより先に薫はその場にうずくまってしまった。頭の上を人々が迷惑そうな顔を浮かべながら通り過ぎて行く。呼吸が荒くなった薫を無理矢理抱えるようにして、すぐそばのマンションの自転車置場に避難した。
壁にもたれかかる薫に、すぐ戻るから、と告げて三軒隣のコンビニまで早足で歩く。冷たいお茶を買って外に出ると、昼の間に温められたアスファルトの熱気と人の波で、私まで倒れてしまいそうだった。
自転車置場に戻ると、薫はさっきと同じ体勢のまま、目を瞑って天井を見上げていた。隣に座ってお茶を渡すと、無言でふた口ほど流し込んだ。そしてまた天井を仰ぎ、動かなくなった。
どれくらいそうしていたのだろう。すっかり日が暮れても、花火大会の会場へ向かう人の群れは止むことがない。しばらくして地響きのように重たい花火を打ち上げる音と、わあっという歓声が辺りに広がった。
「ごめん。俺、最低だな」
いつの間にか目を開けていた薫が呟いた。右手に握ったままだったわたあめの袋は、すっかり空気が抜けてしぼんでしまっている。
「いいよ。それより、わたあめ食べよう」
ピンク色の薄っぺらいビニールの袋を開けると、甘ったるい砂糖のにおいが鼻をつく。袋に手を入れて取り出し薫に渡すと、薄闇の中でそれはぼんやりと白く浮かんだ。
「甘い……」
「甘いね。でも私の好きなもの覚えててくれてありがとう」
花火大会はどんどん激しくなって行く。突き上げられるような音を聞きながら、わたあめは口の中でじわりと溶けた。
(2010/7)
ただのメモです。