天井からぶら下げられた電球を眺めていたら、眠くなるどころかどんどん目が冴えて来た。冷たい布団の中で、僕は電球に向かって「動け動け」と念じる。するとあら不思議。何と電球がぐるぐると回り始めた。どんどん振り幅が大きくなって行く電球は、ちぎれてしまうのではないかというくらいぐいんぐいん旋回している。電球の影が壁じゅうを這い回っている。なんてこった。怖くなって僕は目を閉じた。十数える。目を開けると電球が止まっていると良いなと思う。動けと念じたのは僕なのに、なんてわがままなんだ。電球さん、ごめんなさい。ゆっくりと目を開ける。淡いだいだい色の光が視界に飛び込んでくる。電球は動いていなかった。数分前、僕が「動け」と念じる前と同じように静かな顔をしてそこからぶら下がっている。僕は安堵して寝返りを打った。冷たい布団の更に冷たい部分に足が触れ、いちいち心臓を揺さぶる。壁に掛かった時計を見るとぼんやりと、見えるか見えないかのところで見えなかった。布団に入ったのが一時過ぎだから、きっと今は二時半くらいだ。
「眠れないの?」
隣で眠る佐織が僕に尋ねた。佐織は僕の恋人になるはずだった女だ。なかなか言うことを聞かないので先週首を絞めた。呆気なく僕のものになってしまった。僕はうなずき、佐織の胸に顔を埋める。冷たく硬くなってしまった佐織の乳房をゆっくりと揉みしだく。
「私が居るから大丈夫。ずっとそばに居てあげるから、安心して眠って」
優しい佐織。僕は硬い乳首を吸った。何だか懐かしい匂いがした。電球に照らされたこの寒い部屋の中で、僕と佐織は二人きりだ。僕はこれから佐織のためだけに生きようと決めた。佐織の一生を僕は奪ってしまったのだから、佐織の分まで一生懸命生きるのだ。頑張って働いて、僕と佐織の二人だけの生活を守って行かなくてはならない。
「僕を置いてどこへも行かない?」
「ずっとあなたのそばに居るわ」
顔は見えないが佐織が笑っているのは分かった。顔は昨日食べてしまった。骨は焼いて砕いて水に溶かして飲んだ。佐織はとても美味しい。音のしない心臓に耳をあてる。辺りが恍惚に包まれて行く。僕は射精した。パンツが冷たく湿っていくのが分かったが、佐織から離れたくなかった。可愛い佐織。ずっと僕だけのもの。僕は乳首に噛み付きゆっくりと歯を立てた。少し力を入れると口の中に佐織の乳首が飛び込んで来た。舌の上でそれを転がし、佐織の乳首を味わう。生臭い塊が口の中で動く。それをごくりと飲み込んで隣の乳首も同じように歯を立てた。
可愛い佐織。ずっと僕だけのもの。
(2010/1)
彼女は僕を溺愛していたし、僕も彼女を心の底から愛していた。しかし僕は彼女を抱き締めることも、口づけをすることも、優しく頭を撫でて慰めてあげることも出来ない。自分の不甲斐無さを恨んだが、これが現実であり運命である、そう受け入れることにした。僕が出来るのは彼女に元気な姿を見せて彼女の支えになること。寿命に逆らってでも生きてやる。僕はそう誓った。
彼女はある日男を一人連れて来た。それは彼女の恋人のようだった。男は毎晩のように彼女を抱き、僕が彼女にしてやれなかったことをいとも簡単にしてみせた。彼女が幸せならそれで良いじゃないか。所詮僕はただの魚なのだから。そう自分に言い聞かせ、彼女の幸せを願った。
男は日が経つにつれ、彼女に暴力を振るうようになった。泣きながら「ごめんなさい」と謝る彼女は、決して何も悪くない。それなのに男は何度も何度も泣き叫ぶ彼女を殴り、蹴り、時には物を投げ、無理矢理犯した。そのうち男は彼女を監視し始めた。痣だらけの彼女は、怯えた目で男の言うことに従った。僕は当然の如く、男に対し殺意を抱いた。でも、何も出来なかった。悲しくて悲しくて、死んでしまいたかった。
男はある日、彼女に命令した。
「あの魚どうにかしろよ」
彼女は小さな声で
「出来ません」
と言った。張り手が飛ぶ。頭を壁にごんごんと打ち付けられ、汚い言葉を浴びせられた彼女は、もう涙を流してはいなかった。無抵抗になった彼女の首に男は手を掛け、思いっきり締め上げた。体の先が痙攣する。彼女はやがて動かなくなった。
男はそれから毎日冷たくなった彼女を犯し続けた。何度射精しても足りないようだった。僕は絶望と空腹で死んでしまいたかった。でもなかなか死ねない。神様は残酷だ。それでも、段々と彼女の居る世界が近付いて来ていることは分かっていた。
ある時、男が僕の水槽に近付いて来た。こちらを覗き込み、殆ど動かなくなった僕を見て笑う。そして水槽に手を突っ込み僕の体を掴んだ。
僕は最後の力を振り絞って放電した。びりびりびりびり。男は驚いて手を離し、そのまま後ろにばたんと倒れた。僕は男の胸の上で命が尽きるまで放電し続けた。
男より先に、僕は死んでしまった。でもこれで彼女を抱き締めることが出来る。水槽の青い光だけが、変わらずに僕たちを照らしていた。
(2009/5)
その冬、わたしは多分その小さな町で一番の「死にたがり」だった。何度も剃刀の刃をあてた両腕はぼろぼろで、大型動物の皮膚のように分厚く腫れ上がっていた。薬の飲み過ぎで常に意識は朦朧としていたし、頭の中は「如何に楽に死ねるか」という思考だけがぐるぐると支配していた。本当に今すぐにでも死にたいのなら、去年丘の上に出来た二十階建てのマンションの屋上から飛び降りれば良いだけだし、一時間に一本しか無い私鉄電車に飛び込めば一瞬で死ぬことが出来る。それをしないのはわたしがただの「死にたがり」で、本当に死にたいなんてことは思っていないからだった。死にたくなる理由は沢山沢山あったけれど、それは少し見方を変えるだけでいくらでも生きるための糧になり得る気がした。それでもわたしは死にたがった。死にたがっている自分に酔っていたのかも知れない。
その冬で一番冷え込んだ日の朝、わたしはインターネットの通信販売で手に入れたサバイバルナイフと、いつも腕を切るために使っている桃色の剃刀を持って外へ出た。町はまだ薄暗く、たまにすれ違うひとたちも肩をすくめてうつむいていた。皆早足だった。その中を、わたしはゆっくりと歩く。薬を沢山飲んだのに眠れなかった。耐性が付いてしまっているのだ。わたしにはきっともうどの薬も効かない。死ぬための手段を一つ断たれてしまったようで、ひどく悲しくなった。
しゃり、しゃり、しゃり。雪なのか霜なのか、足元は凍っているのか、外はどれだけ寒いのか、分からなかった。薬を飲み過ぎた所為だろう。覚束ない足元は蛇行しながら目的地へ向かう。
「死ぬ勇気なんて無いくせに」
一ヶ月前、妹がわたしに向かって吐いた言葉がぼんやりと頭に浮かんだ。なんて陳腐なセリフなのだろう。そんなの最初から分かっていることではないか。死ぬ勇気があれば、わたしはもうとっくに死んでいる。
「いつまでも家に居ないでちょうだい、邪魔なのよ」
そうだ、わたしはもう二十歳を過ぎた成人なのだった。普通ならちゃんと働いて、こんな田舎の小さな町なんてとっくに出て、県外で一人暮らしでも満喫している頃だろう。確かに二十歳を過ぎた娘が働きもせず、ずっと家に居たら邪魔以外の何物でもない。
それでも母が吐く溜息の数に比例するかのように、私が家に居る時間はどんどん長くなって行った。今では立派な引きこもりの完成である。ろくな食事をしていないので、体は骨と皮だけの気持ち悪い姿になってしまった。頬はこけ、目の下には常にクマを作り、眼球だけが大きく見開かれた不気味な顔。わたしは一昨日の夜、部屋にあった唯一の鏡を割った。それで腕を切ったら何とも言えない爽快な気分になった。
線路沿いの道をゆっくりゆっくり歩く。家を出る前に飲んだ水道水の所為で胃の中がぐらぐらと煮えたぎっているようだ。吐きたくても吐くものが無い。
そういえば醤油を一升飲んで死んだひとが居なかったっけ。一升って何リットルだ?醤油で自殺はちょっと格好付かないな。出来もしないことを考えながらわたしは歩く。死にたがりやの妄想が現実に変わることは無い。
物心付いた頃からだろうか。母はいつもわたしに「普通」を求めた。「普通」に勉強して「普通」に学校に行って「普通」に卒業して「普通」にどこかの会社に就職する。そうすれば「普通」に幸せな結婚が出来るから。それが母の口癖であり、母自身が生きて来た道だった。
わたしは「普通」になろうと頑張った。「普通」に学校も通った。「普通」に卒業もした。「普通」に就職もした。でも母が求める「普通」にはなれなかった。挫折したのはいつだっただろう。もう忘れてしまった。これでも頑張ったつもりなのにな。今のわたしはどうやら「普通」ではないようだ。
かんかんかんかんかんかんかんかん。踏切越しに始発電車が通り過ぎる。冷たい風が一気に目の前をかっさらい、私は思わずよろけてしまう。今飛び込んだら死ねたかな、なんて非現実的なことを思い浮かべつつ、線路の向こう側へと歩く。
「ねえ」
かすれた声がわたしの背中越しに通り過ぎた。低い、男の声だ。まさかこのわたしに向けられた言葉ではないだろう。そのまま足をゆっくりと前に進める。
「ねえって」
先程よりも強い口調で、声が背中に突き刺さる。周りには誰も居ない。わたしは思わず振り返ってしまう。
「ちょっと道聞きたいんだけど」
長い髪を一つにまとめた痩せぎすな男が早足でこちらに向かって歩いて来ていた。どうやら男はわたしに声を掛けたようだった。長い間声を発していなかったわたしは、裏返った声で返事をした。
男は隣町の駅に行きたいのだと言った。それならこうこうこうで、こう行けば良いですよ。親切にもわたしは教えてあげた。男は「ありがとう」とにっこり笑い、わたしの手を握った。びっくりして振りほどこうと何度も腕を上下に回したが、薬で力が抜けているわたしが成人男性の強い腕力に敵うわけもなかった。
「大丈夫、大丈夫」
男はそう呟きながら、わたしをどんどんわたしの意思とは反した場所に連れて行こうとした。何が大丈夫なのか分からない。恐怖で声が出ない。脚がもつれて転びそうになるたび、男は私を両腕で支えた。でも握った手を離すことはしなかった。
男は線路沿いに停めてあった白い車にわたしを乗せようとした。私は抵抗する。サバイバルナイフの存在を思い出し上着のポケットを探ると、出て来たのは剃刀の方だった。
「あっぶないなあ、何持ってんの」
男はにやにやした顔つきで私の剃刀を取り上げると、線路に向かって投げた。
「へえー、あんなんでいつも腕切ったりしてるんだ」
いつの間にか露出している腕。昨日切ったところは血が固まってかぴかぴに乾いている。男はゆっくりと腕をさすると、力を込めてわたしの腕を反対方向に曲げた。ぼき、とかそんな音がした。痛い。勝手に涙が顔の上を流れて行った。
「そんなに死にたいなら手伝ってあげるよ」
男はわたしにキスをした。二十年ちょっと生きて来た中で、初めてのキスだった。私は恋愛というものをしたことがないのだ。男性経験ゼロ。きっと処女のまま死んで行くのだと思っていた。
男の口はヤニ臭くて、粘っこい唾液の味がした。
「ささ、乗って乗って」
無理矢理車の後部座席に押し込められると、そこにはガムテープで口と腕を塞がれた女の子が居た。女の子は私を見ると大きく目を見開き、何かを叫んだ。よく見るとそれは、一ヶ月前わたしに暴言を吐いた妹だった。
「暴れて大変だったんだよ、あんたの妹。もうすぐ二人とも楽になるからね、もうちょっと我慢してね」
間もなくわたしの口にもガムテープが巻かれ、変な方向に曲がった腕も無理矢理後ろ手にぐるぐる巻きにされた。恐怖と痛みで涙がどばどば溢れてくる。妹は何かを訴えていたが、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「あ、二人とも退屈だよね。テレビつけてあげるね」
カーナビの画面に映し出された教育テレビでは、無邪気な子供たちが笑顔で走り回っている。時折画面がざざざっと音を立てて乱れた。男は上機嫌で鼻歌を歌っている。暫くすると妹は静かになった。
薬の所為なのか体がもう麻痺してしまったのか、いつの間にか痛みはもう全く感じられず、体がもう自分のものではないようで、わたしはわたしという入れ物に入った感情だけの生き物のように思えてきた。頭の上でぐるぐるまわる童謡も、恐怖に侵された妹の黒い瞳も、そこに在ってそこには無く、すべてが夢のようで、にせもののように思えた。
このまま死ぬのかな、まだ死にたくないな。あんなに死にたがっていたのに、現実として「死」を目の前に差し出されると「生」にすがってしまう。これは生物としての本能なのだろうか。
わたしの家は、どこにでもあるような至極一般的な「普通」の家庭だった。無口で笑わない父親と、口うるさくいつもヒステリックに喚いている母親。出来の悪いわたしを常に見下している妹。絵に描いたような「普通」の家庭に生まれ、「普通」に生きて来たつもりなのに、今この状況は確実に「普通」じゃない。
妹は何故ここに居るのだろう。わたしがあの道を通ることを知っていたのだろうか。わたしは滅多に外出をしない。今日だって、外に出たのは実に二ヶ月と十日ぶりだ。そしてこの男は一体誰なのだろう。
遠くなって行く意識の中で、数多の疑問符が浮かび、解決しないまま消えて行った。遠退いて行く童謡と共に強くなって行く耳鳴り。わたしは本当に死ぬのかも知れない。
がこん、という音がして、車が止まった。フロントガラスには隙間無くひびが入り、中央より少し右にそれた部分にいびつな穴が開いている。その穴はいつの間にかどんどん広がって、誰かの腕が差し込まれる。細く華奢な腕から垂れる鮮血は、朝日をバックにきらきらと輝いていた。腕は男に近付く。鼻歌を歌っていたはずの男はぴくりとも動かない。そのかわり、ひっ、とか、ううっ、とか変な声が漏れている。腕は伸びる。どんどんどんどん、男の首に向かって伸びる。既に人体の域を逸している。
助手席のドアが開く。誰かがわたしに手を差し伸べている。逆光で顔が見えない。現実が巻き返す。ビデオカメラを持った男が後部座席のドアを開けた。フロントガラスのひびも、華奢な腕も、跡形もなく消えている。引きずり降ろされる妹。
「はーい今から公開処刑(笑)しちゃいまーす」
ビデオカメラを持った男が言う。ここはどこだろう。車の外には沢山の人影が見えた。
「はい、とっとと降りてねー」
妹が座っていたシートの上には黒いしみが出来ていた。引きずられながらその上を通り過ぎると、一瞬だけ血のにおいがした。
急に目の前が明るくなって、朝日が眼球を直撃する。眩しくて人の顔を認識出来ない。
「はいこの可愛い姉妹はー、ご両親に捨てられたかわいそうな子たちでーす。借金のカタに売られちゃいましたー。好きにして良いそうでーす。あまりにもひどいのでー、その様子をご両親にも見てて頂きまーす」
わずかに残っていた力を振り絞り、ゆっくりと顔を上げると、目隠しをされた男女が少し離れた場所に座っているのが見えた。あれが父と母のようだ。家を出て来る時には寝ていたはずで、着ているものもパジャマ一枚だ。母は微動だにしない。父はうなだれて、時折弱々しく首を横に振ったりしている。父と母はずるずると二人の男たちに抱えられ、わたしと妹の前にどさりと放り投げられた。
「ちょっと暴れてムカついたのでー、ママの方は先にやっちゃいました!でもちゃんと見ててもらうからねー」
男はそう言いながら目隠しをしていたタオルを外した。そのタオルはわたしが小学生の時から家にあったものだ。母の首には赤い線がくっきりと残っている。目は見開かれ、宙を仰いだままだ。父は何かぶつぶつと呟いている。内容ははっきりとは聞こえない。父の声を聞くのは何年振りだろうか。父の目線も定まらず、空を泳いでいる。青いパジャマの股間の部分は、そこだけ色が濃くなっていた。
父と母の向こう側には、わたしが死に場所の一つとして決めていた丘の上の二十階建てのマンションが見えた。反対側まで来てしまったのに、今の方がより「死」に近付いている。
「ごめんね、すぐ終わるからね」
男は満面の笑みでそう言うと妹の腹を蹴った。どん、という音と、ぐっ、という呻き声が混じる。
「妹の方はまだ使い道があるのでー、飢えたオオカミくんたちのエサにしちゃいまーす!」
男は遠巻きに見ていた一人の男にビデオカメラを渡すと
「好きにして良いから。最後は殺っちゃっても構わないしー」
と言って妹の背中を蹴った。ぐえっという声と共に、妹はアスファルトの上を転がって行った。よく見ると妹は高校の制服を着ている。そういえば昨日は帰っていなかった。わたしが家を出たあとに何かが起きたのだろう。妹は数人の男たちに抱えられ、ワゴン車の中に連れて行かれた。うなだれた父はぶんぶんと頭を振った。
「お姉ちゃんの方はどうしようもねーなー。汚いし臭いし不細工だし。風呂入ってねーだろ?こんな貧乳のクサマンには誰も欲情しないもんなあー」
男はそう言いながらわたしが着ているものを一枚ずつ剥いでいった。寒い。
「あれー?こんなものまで持ってるんだー?」
家を出る時にポケットに突っ込んでおいたサバイバルナイフが男の手に握られている。ああもう終わりだ。殺される。どうせ死ぬならとっとと死んでおけば良かった。頭の中を生まれてからの記憶が勢いよく引っ張り出されて行く。これが走馬灯ってやつなのかな。
「お姉ちゃんさー、これでお父さんやっちゃってくんない?俺もう無闇に人殺したくないんだよね(笑)だからこれでずばっと!ぐさっと!やっちゃってよ。ね?」
男はわたしの頭を撫でながら言った。
「お父さんもうあんなんだし使い物になんないからさ。ね?お願い!」
目の前で両手を合わせる男。父との思い出など何一つ無いが、どんな形であれ父であることに変わりはない。わたしには父の血が流れているのだ。それを今、ここで、殺せ、と。
父はがたがたと震えている。心無しか股間のしみが大きくなっているように見える。わたしはうなずいた。
「本当に?ありがとー!んじゃぱぱーっとやっちゃってね。喉切れば一瞬だからー」
男の手により下着だけの姿にされたわたしは、巻かれたガムテープを解かれ、腕と口が自由になった。左腕はまだ変な方向に曲がっているが、不思議と痛みは無い。男が父の横腹を蹴ると、父は一回転して仰向けに寝そべる形になった。視点は相変わらず定まっていない。
よろよろと立ち上がり、父の上に跨る。歯を食いしばっているのか、ぎりぎりと不快な音が耳をつく。
こんなにも父は小さかっただろうか。幼い頃、何の理由も無く殴られたことがあった。その頃の父は物凄く大きく恐ろしい生き物で、敵うことは無い絶対的な存在だった。それが今、目下にある父に向かってわたしはナイフを振りかざそうとしている。下剋上である。
「ぱぱーっとね。勢いよくやった方がお父さんも苦しまないで済むよ」
男のアドバイスに従うように、わたしは両手に力を込める。左手は右手の半分くらいしか力が入らないが、まあ何度か突けばどうにかなるだろう。
父と目が合った。恐怖におののいた目。まさか娘に殺されるなんて。まさか娘は自分を殺さないだろう、そう思っていたりするのだろうか。この状況下においてそれは厳しいか。深く息を吸う。
「おわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
わたしは父の喉元に向かってナイフを突き刺した。叫び声は勝手に出て来た。ずぶり、ずぶり。何度も抜いては刺した。ごぼごぼと溢れ出す赤黒い血液。返り血が目に入ってもわたしは腕を振り下ろすことを止めなかった。
「激しいねえ、もうお父さん死んじゃったよ?もう止めても良いよ?」
隣で男が笑いながら言う。血液で持ち手の部分がぬるぬると滑る。ナイフが手のひらからこぼれ落ちるまでわたしは止めなかった。足元に居る父も、その上のわたしも血まみれで、アスファルトの上に大きな血だまりが出来た。
「よくやったね。ありがとう。意外と使えるじゃん」
男は二度目のキスをした。鉄くさい、乾いた味がする。そのまま男はわたしを横に倒し、血まみれになった下着を剥いで股の間に指を突っ込んできた。内臓をえぐられるような激痛が突き抜ける。歯を食いしばると自然に涙が溢れた。
「お姉ちゃんもしかして処女なの?マジで?そっかあ、じゃあ死ぬ前に良い思いさせてあげないとねえ」
男はわたしを引っくり返し四つん這いの形にさせると、ナイフで股の間をなぞった。
「逃げたらだめだよ。ぶすっといっちゃうからねー」
ひんやりと冷たいそれは、わたしの恐怖を助長させるのに十分な凶器だった。でも、既に何もかもが麻痺してしまっている。わたしは「普通」ではないし、母は殺され、父親は娘のわたしが殺してしまった。車の中で数人の男たちに犯されているであろう妹を助けることも出来ない。わたしに残っているものと言えば「死」という現実だけで、もうどうなってしまっても許せるような気がした。
男がかちゃかちゃとベルトを外す音が聞こえてくる。ナイフが肌から離れると同時に、一気に男の中心がわたしの体を貫いた。痛い。痛い。痛い。涙はもう出て来ない。聞こえるのは男の荒い吐息と、わたし自身の口から洩れる、うっ、とか、ぐっ、とかそういう声だけ。目を瞑って思い出す。楽しかった出来事、嬉しかった出来事。残念ながら何も浮かばなかった。余計に痛みの感覚が増しただけだった。
「気持ち良いだろ?なあ?死ぬ前に良い思い出来て良かっただろ?」
男の動きが一気に速くなる。あああっ、という声と共に男の動きが止まった。射精したのだろうか。もう終わったのだろうか。何しろ経験が無いのでわからない。暫くすると男の体が背中にのしかかってきた。重い。
「お姉ちゃん、そこどいて」
男の体の下から這うように出ると、体の中に入っていたものが一気にずるんと抜けた。ぽっかりと穴が空いたような感覚。鈍い痛みは今頃やってきて、脈に合わせてずきずきとそこを震わせる。
上体を起こすと、正面にはわたしと同じくほぼ全裸で血まみれの妹が立っていた。男の首にはバタフライナイフが刺さっている。妹は男の背中に跨りナイフを抜くと、何度も男の襟首や背中に向かってナイフを突き刺した。きっと父を殺したわたしの姿も、今目の前にある妹の姿と何ら変わりは無かっただろう。返り血が妹の白い肌を汚す。わたしはそれを見ていることしか出来なかった。
「お姉ちゃん、わたしたちこれからどうしよう?」
ワゴン車の中には男たちの死体、アスファルトの上には両親とわたしの処女を奪った男の死体。死体に囲まれて、わたしと妹は途方に暮れた。
妹は、護身用に常にバタフライナイフを持っていたのだと言った。そして、いつでも死ねるように、剃刀も持ち歩いていた、と。妹もわたしと一緒だった。腕に出来た無数の傷を見せ合って、傷口を重ねると笑えてきた。辺りはすっかり明るくなり、陽に照らされる沢山の死体を見ながらわたしと妹は心を決めた。
「わたしたちってさ、『死にたがり屋』だけど『殺し屋』にもなれたね(笑)」
「あんまり嬉しくないけどね(笑)」
「お姉ちゃん、いっぱいひどいこと言ってごめんね」
「良いよ、今更。あんたは可愛いんだからまだ人生これからだったのに」
「もう良いんだ。だってわたし『死にたがり屋』だもん」
「ふふふ。『死にたがり屋』の姉妹だね(笑)」
「ね(笑)」
「じゃあそろそろ終わりにしようか。逃げ道も無くなっちゃったし、生きてるのもしんどいし」
「うん。あんまり痛くしないでね」
「多分無理(笑)」
せーーーーーーのっ。
わたしと妹は同時に互いの喉を掻っ切った。その瞬間、妹は笑っているように見えた。多分わたしも笑っていた。
喉元に熱い痛みが走り、どくどくと口から血が溢れ出る。妹がわたしの膝の上に倒れ込むのと同時に、わたしは妹の背中に頭を乗せた。腹部に熱がこもる。血液やら体液やらよく分からないものたちが飛び散っている。最後の力を振りしぼり、わたしも妹の背中にサバイバルナイフを突き刺した。ぐぇっ。妹の口から大量の吐瀉物がこぼれ落ちた。
すべてがスローモーションだった。ゆっくりと時間は経過し、確実に「死」に導かれて行く。妹の背中越しに二十階建てのマンションが見えた。それが最後に見た景色だ。
まぶたが重くなる。ひどい耳鳴りがゆっくりと思考を低下させ、わたしはずぶずぶと眠りの森に引き込まれて行く。温かい妹の体温を感じながら、「死にたがり」の妄想は現実となった。
(2009/4)
ただのメモです。