洗濯機が壊れたので、コインランドリーに行くことにした。深夜一時過ぎ、女の一人歩きは危ないから、ってすぐ近所に住む恋人のハジメがついて来てくれて、半分欠けたお月様を見上げながら手を繋いでコインランドリーに向かった。
年中無休、二十四時間営業のコインランドリーはコンビニの隣にあって、そこだけは闇に落ちた白熱灯のようにピカピカ輝いている。引き戸を開けるとむわっとした熱い空気、それと乾燥したカビっぽいにおい。中には誰も居なくて、天井の奥にぶら下がった監視カメラだけがこちらをじっと見ていた。
ごうん、ごうん、と音を立てて洗濯機が回る。あと二十五分も掛かるらしい。明日も仕事だし、眠くなってあくびをしたら隣でハジメも口を押さえた。
「あくびってうつるよね」
なんて言いながら、ハジメの肩に寄り掛かってひたすら回る丸い洗濯機を眺める。ぐるんぐるんと一定の速度で回るそれは、催眠効果抜群だ。
「あ」
ハジメがいきなり声を上げて、半分夢の世界に頭を突っ込んでいた私はびくんと肩を跳ねた。
「何、急に」
「何か落ちてる」
並んだ洗濯機の前に、よく見ると一つずつ黒いものが落ちている。ハジメはわざわざ立ち上がりそれを拾い上げ、私の目の前にかざした。
「ひまわりの種かな?」
ハジメが言い終わるより前に、私は種を摘まんだ指に食らいついていた。
「うわ、何すんの! 食うなよ!」
何故自分がそんなことをしたのか分からない。半分寝ぼけていたからか、ハジメの指が美味しそうに見えたのか、とにかくそれを口に入れたい衝動に駆られた。本能に突き動かされるというのはこういうことを言うのかも知れない。
「お腹空いてるなら何か買って来るよ」
そう言ってハジメは隣のコンビニに出掛けて行った。洗濯機はすすぎを始め、泡立った箱の中は灰色の水で満ちて行く。目を瞑るとそのまま後ろに引っ張られるようにして眠ってしまった。
翌日、出勤前に洗濯物を干していると鈍い腹痛に襲われた。痛みがどんどん強くなって慌ててトイレに駆け込むと、下着は真っ赤に汚れていた。脚の間からはとめどなく血が流れている。怖くなってハジメに電話をすると、すぐに飛んできたハジメは私を抱えて病院に連れて行ってくれた。私は流産していた。
妊娠していたことすら知らなかった。ハジメはびっくりしていたけれど、優しく抱きしめて、
「体大事にして。結婚しよう」
そう言ってくれた。
昨日の夜食べたひまわりの種のことを思い出し、
「もしかして洗濯機の赤ちゃんかな」
って言ったらハジメは「バカ」って泣きながら笑った。ハジメの腕の中で、私は一ヶ月と少し前に洗濯屋の息子と浮気したことをぼんやり思い出していた。
(2010/5)
チョコレートの香りが口の中いっぱいに広がって、私は血まみれなのに思わず笑ってしまった。空は突き抜けるように青く、雲は一つもないのに風は冷たくて、
「絶好の死体日和だね」
とユウは言った。私はうなずく。笑いが止まらない。
大好きなユウが作ってくれた血糊で私は真っ赤っか、恐らくユウも私と同じかそれ以上に赤い。狭いベランダにレジャーシートを敷いて、鍋いっぱいの偽物の血で体中を汚した。
この遊びを見付けた時、私たちの間に流れていた怠惰な空気や負の感情が一切拭われた気がした。溶かしたチョコレートに食紅を混ぜるだけ。血糊の完成。こんなに簡単なことなら早くやれば良かったね、って私たちは何度も言い合った。
まだ少し温かい血糊を手のひらに取り、べたべたと体中にくっつける。その様子を室内に置いたビデオカメラで撮影する。それだけの遊び。何も関係の無い人が外から見れば、異常事態に驚くかも知れない。しかしここは高層団地の八階で、高い柵がベランダを覆っている。下からは覗けないし、近くにはここより高い建物が無い。お隣さんは空家だ。こんなチャンスはまたとない。
休みのたびに、私とユウは血糊を作って死体ごっこをした。局部的に、例えば左腕や脚の間や頭や心臓の辺り、そこだけに血糊を落としてリアリティを追求し、本物の死体により近付ける。その繰り返し。
血まみれのユウを見ていると、本当に死んでしまったような気分になって涙が出て来る。真っ赤な私が血の涙を流してユウに縋り付くと、意地悪なユウはぴくりとも動かずに死体になりきる。
「ユウ! 起きて! 死んじゃいや! 私を置いて行かないで!」
迫真の演技だ。ユウは勢いよく笑い出し、強い力で私を抱き寄せて、より赤くなった私たちはベランダに寝転んで空を見上げる。死体ごっこをする時のキスの味はいつもチョコレートだ。唾液と血液とチョコレートがごちゃまぜになって、最高に気持ちが良い。
「死ぬ時もこんなに気持ちが良かったらいいのにな」
「やっぱり痛いのかな。苦しまずに死にたいね。今みたいに楽しい気分のままでさ」
真っ赤な顔が近付いて、唇にチョコレート味が再び降りる。ビデオのテープが切れる音が聞こえると、私たちはそのままセックスをした。冷たい風が体中を撫でて、ばかみたいに青い空に赤い血はよく映えている。目を閉じるとチョコレートのにおいがした。
「このまま死んでもいい。死にたい」
そう言ったらユウは私を殺してくれるだろうか。手のひらを首筋にあて、そのままゆっくりと力を込めて行き、事切れた私はユウの腕の中でだらしなくしなる。
そんな想像をしながら、真っ赤な顔に手を伸ばしてキスをせがんだ。チョコレートが唾液で溶ける。私は甘い死を迎えた。
(2010/5)
伸ばした手のひらの先に触れた透明な水の感触には覚えがあった。ひんやりと冷たく、長い間触れたままでいると指の先が痺れてくる。私はひとひらの水をすくい、両手の隙間からこぼした。落ちて行く液体の先にゆるやかな波紋が出来、水の輪は次第に広がって行く。何度かそれを繰り返すことで、私は私自身の記憶を呼び起こし整理しようとしていた。指先の感覚は最早無くなってしまっている。構わずに私は冷たい水を落とし続けた。
絵に描いたような絶望を味わった。私は小学生で、まさかそんな事故が自分の身に起こるとは思ってもみなかった。
そう、あれは事故だった。過ぎてしまえば断片的でしかなく、一瞬で消えてしまう速足の出来事。でも、それは故意に記憶を消しているだけであって、実際には細部まで精密に思い出せる。あの日の薄曇りの空の色や、体中に張り付くような湿気、雨のにおい、母のエプロンの模様の一つひとつを、今でも忘れてはいない。
どうして? お母さん。ねえ、お母さん、返事をして。私のことが嫌いになったの? どうして? お母さん。お母さん。
浴室の鍵は壊れていた。だから出ようと思えば容易く外に出ることが出来たのに、当時の私は知らなかった。すりガラスの頼りない扉を叩き続けた。外側からは何も音がしなかった。部屋の奥で母がまた腕を切っているのだと思った。
途方に暮れた私は、冷たいタイルの床の上に座り込んだ。天井に近い小さな窓から差し込む鮮やかな光は、追い打ちを掛けるように私の心を暗くさせた。
浴槽の中には、昨夜の残り湯がそのままになっていた。底なし沼のように口を開けた浴槽に手を伸ばし水面に触れると、私の先から輪を描くようにして水が広がって行った。私は服を着たまま、底なし沼に身を沈めた。このまま絶望に身を任せて消えてしまえば良い。
水は冷たかった。足の先がじんじんと痺れ、心臓に近付くたびに脈は早くなった。
明日のプールの授業は雨になったら体育館でのなわとびに替わる。それは嫌だなあ。ほのかな塩素のにおいがして、そんなことを思った。目を瞑って頭の先までを沈めると、世界中の音が止まった気がした。
目を覚ますと、母は私のほっぺたを叩きながら泣いていた。その後ろには父の姿もあった。二人とも私の名前を呼んでいた。私はまだ水の中にいるようで、頭がぼうっとしていた。
その事故の後遺症として、私は長い間記憶を止めておくことが出来なくなってしまった。脳の一部分が死んでしまった、と医者は言った。
私は消してしまった記憶を修復するように、時々こうして水に触る。水はいつも冷たい。そして、あの日の出来事を思い出し、後悔する。でも、どうせすぐに忘れてしまうのだ。
(2010/5)
ただのメモです。