真っ赤な夕焼けが辺り一帯を薄桃色に染めた夏休み初日、塾の帰りに空を見上げた。僕が住む巨大な団地群の隙間からのぞく赤い空は、昨日食べたすももの皮と同じ色をしていた。視界の中に、七号棟があった。その十一階、つまり最上階の一番端の部屋のベランダから、手を振っている少女がいた。
最初は見間違いだと思った。周りにはまだ沢山の人がいたし、僕は十一階に知り合いなんていない。赤いワンピースを着た少女は、次第に両手を手招きするように前後に振り始めた。僕は呆気に取られたまま動けなくなり、午後七時を知らせる夕焼けこやけのメロディで我に返った。
夕食の時間が近付いている。でも、このまま帰ってしまえば心残りが出来ることは明らかだった。あの十一階の少女の姿を確かめたい。何なんだあいつは。
僕の足は七号棟に向かう。僕の住む十四号棟はもっと奥にあるし、家は四階なので、十一階という未知の世界を見てみたいという純粋な好奇心もあった。少女を見つけられなければ、黙って家に帰ればいいのだ。僕はどきどきしながら「11」と書かれたボタンを押した。
エレベーターを降りると、赤いワンピースを着た少女が廊下に寝そべっていた。年は僕より少し下、十歳くらいだろうか。四階では感じられない横風が、汗ばんだ体に気持ち良かった。
「何してるの?」
恐る恐る声を掛けると、少女は動かないまま何かを呟いた。え? 僕は聞き返し、少女の隣に座り込む。
「再起動してるの。ちょっと待ってて」
サイキドウシテルノ。言葉の意味を理解する前に少女はがばりと起き上がり、僕の首に巻きついてきた。
「再起動完了した」
「よ、よかった……ね」
真夏なのに長袖のワンピースを着た少女は汗ひとつかかず、さらさらの髪の毛からはシャンプーの匂いがした。
「さっき夕焼け見てたでしょ。ここから見るともっと綺麗だよ」
耳元で少女の声が揺れる。小さな手が指差した方向に目をやると、大きな太陽が眩しかった。
「すごい……」
ゆっくりと、確実に太陽が沈んで行く。団地に、学校に、街の上に落ちて行く。すごい、以外の言葉が出て来ない。
少女は猫のように何度も僕の首に自分の頭を押し当て、綺麗でしょ、すごいでしょ、と呟いた。そして太陽が完全に沈んでしまうと、僕の体からようやく離れた。
「二年に一回しかないから、ああいうのは」
妙に大人びた口調で少女は言う。圧倒されたままの僕は、上手く回らない頭を下に振る。
「だからまた、二年後に見に来てね」
そう言うと少女はするすると小さくなり、見えなくなってしまった。少女がいた場所にはぴかぴかと光る、薄いカードのようなものが落ちている。表面にはデジタルの画面があり、そこには数字が並んでいた。一秒ごとにその数字は減っていく。
二年後、二年後、二年後。僕はカードをポケットに入れ、そう呟きながらエレベーターで地上に降りた。
(2010/7)
花火大会に行こう、と提案したのは薫だった。人ごみが大の苦手で貧血持ち、すぐに風邪をひく虚弱体質、そもそも家からほとんど出たがらない薫がそんなことを言うなんて思ってもみなかった私は
「無理しなくていいんだよ?」
と何度も確認した。
「無理はしないよ。たまにはカップルっぽいことしたいじゃん」
そう薫は笑ったけれど、花火大会に向かう電車の中で既にぐったりしている薫を見て、やっぱり止めれば良かったと後悔した。
駅を出ると、歩行者天国になっている大通りには老若男女、数えきれないほどの人の群れが黒々とした波を作っている。その脇を固める色とりどりの屋台たちは、道の終わりまで果てしなく続いているかのように見えた。
「あ、わたあめ売ってるよ。杏子、わたあめ好きだったよね」
満員電車から解放され少しだけ顔色を取り戻した薫は、私の手を引いてわたあめの屋台に向かって歩く。そういえばこんな風にデートをしたのは何ヶ月ぶりだろう。どこかに出掛けても薫がすぐ体調を崩してしまうせいで、ちゃんとデートをした回数なんて片手で数えるほどしかない。
「はい」
薫から渡されたわたあめの袋を受け取ると、私は自然と笑顔になった。しかし薫の額には尋常じゃない数の汗の粒が浮いている。唇は震え、顔は真っ青だ。
「ちょっと、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「いや、うん、大丈夫。……じゃないかも」
言い終えるより先に薫はその場にうずくまってしまった。頭の上を人々が迷惑そうな顔を浮かべながら通り過ぎて行く。呼吸が荒くなった薫を無理矢理抱えるようにして、すぐそばのマンションの自転車置場に避難した。
壁にもたれかかる薫に、すぐ戻るから、と告げて三軒隣のコンビニまで早足で歩く。冷たいお茶を買って外に出ると、昼の間に温められたアスファルトの熱気と人の波で、私まで倒れてしまいそうだった。
自転車置場に戻ると、薫はさっきと同じ体勢のまま、目を瞑って天井を見上げていた。隣に座ってお茶を渡すと、無言でふた口ほど流し込んだ。そしてまた天井を仰ぎ、動かなくなった。
どれくらいそうしていたのだろう。すっかり日が暮れても、花火大会の会場へ向かう人の群れは止むことがない。しばらくして地響きのように重たい花火を打ち上げる音と、わあっという歓声が辺りに広がった。
「ごめん。俺、最低だな」
いつの間にか目を開けていた薫が呟いた。右手に握ったままだったわたあめの袋は、すっかり空気が抜けてしぼんでしまっている。
「いいよ。それより、わたあめ食べよう」
ピンク色の薄っぺらいビニールの袋を開けると、甘ったるい砂糖のにおいが鼻をつく。袋に手を入れて取り出し薫に渡すと、薄闇の中でそれはぼんやりと白く浮かんだ。
「甘い……」
「甘いね。でも私の好きなもの覚えててくれてありがとう」
花火大会はどんどん激しくなって行く。突き上げられるような音を聞きながら、わたあめは口の中でじわりと溶けた。
(2010/7)
「このままここから出られなくなったらどうする?」
僕たちはよくこういうことを想像する。モモは少し考えたあと答えた。
「いいと思うよ。お腹が空いたら……、あっ」
かばんに手を突っ込んでごそごそとやっている間、僕はもう一度スカートめくりに挑戦した。今回は成功した。水色だ。
「これ、今日調理実習で作ったんだった。お腹空いたらこれ食べればいいよ」
ラップで包まれた二つのシュークリームがモモの手のひらの上にのせられていた。僕はスカートに足を突っ込んだままそれを受け取る。少し潰れたそれは、薄暗い浴室の中ではとても色が悪い。ラップを取って口に入れると、粉砂糖の甘さが広がった。
「じゃあ、これが毒入りだったらどうする?」
モモはシュークリームを持ったまま訊く。
「モモに殺されるなら別にいいよ」
「死に至る毒じゃなくて、今のユウのまま時間が止まってずっと死ねない薬が入ってたら?」
僕は想像した。どんどん年を取って行くモモの横で、若い僕はそれを見守っている。やがてモモは死んでしまうだろう。一人きりになった世界で、モモとの記憶だけにすがって生きて行く。そんな世界を想像しただけで寂しくて苦しくて辛くて、涙が出そうになる。
「唾液感染するってことにしてモモも不死身にしてあげる」
僕は白い腕を引いてモモの唇に自分の唇を重ねた。隙間に舌をねじ込み、唾液の交換をする。柔らかなモモの舌が、僕の口の中でぎこちなく動く。しばらくして唇を離すと、目を閉じたままモモは言った。
「ここは私とユウだけの世界で、外は荒廃した大地。アルカリの雨が降るの」
僕も目を閉じる。
「私たちはここに閉じ込められたまま、ずっと二人だけでこうして想像したり眠ったりする。外に出るとアルカリの雨で体が溶けちゃうから、出られないの」
まぶたの外側が一瞬だけ光ったあと、すぐにゴロゴロと雷が鳴った。雷がこの浴室に落ちて、二人で感電死なんていうのもいいかも知れない。
薄目を開けるとモモは窓の方を見ていた。雨は降り続いている。湿気で制服のシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。もう一度スカートをめくると、モモは僕の方を向いてにやりと笑った。さっきよりも暗くなった浴室の中で、水色の下着は灰色に映った。
「蒸し暑いね」
どちらからともなく立ち上がり、浴室のドアを開け深呼吸をすると、肺がひんやり気持ちいい。
「シュークリームもう一個ちょうだい」
「こっちは本物の毒入りだよ」
さっきと同じ粉砂糖の味が広がった。僕はモモに口づけをして、再び毒を感染させる。
(2010/7)
ただのメモです。