ぬくもりが消えた瞬間を覚えている。私はお尻からツツジの植え込みに墜落し、ハルは頭からコンクリートに突き刺さった。ずっと繋いでいた手のひらが離ればなれになる時、ハルは私の手のひらをきゅっと握った。それが最期の合図だった。もう少し発見が遅かったら私もハルと一緒に行けたのに。
夕暮れ時の時間帯、面会から帰る人々を屋上から眺めながら、いつものようにハルは言った。
「このまま飛べたら良いのになあ」
夕日に照らされた横顔からは、表情を読み取ることが出来なかった。笑っていたのか、泣いていたのか、私が立っている場所からは陰になって見えない。
飛べるよ、一緒に飛んであげるから怖くなんてないよ。私が何度そう言ってもくしゃくしゃの笑顔で頭を撫でるだけだったのに、その日は違った。
「本当に、一緒に飛んでくれる?」
真剣な、今にも泣き出しそうな顔でハルは言った。声が少し震えていた。
「いいよ」
ハルはぎゅっと私を抱き締めて「ありがとう」とだけ言った。私たちに言葉は無く、ただ淡々と、屋上の高い柵を越えた。恐怖は無かった。これで楽になれる。我儘な両親から、理不尽な校則から、苦痛に顔を歪めるハルの姿から。
ぎらぎらと照り付ける夕日が眩しくて、何度もまばたきをした。その度に耳鳴りがしたのは、二人だけの世界の終わりを知らせていたからかも知れない。ハルと私の手のひらはきつく結ばれて、せーの、で飛んだ。セーラー服のリボンが鼻の頭に当たってくすぐったかった。パンツ見えるかも。ハルにすら見せてないのに、なんて。
次の瞬間、ハルの手のひらが離れた。私は必死になって空を探ったけれど、その時にはもう腰から下が動かなかった。誰かの悲鳴と慌ただしい足音。夕焼けこやけのメロディ。ハルはもう私が知っているハルではなくて、ただの赤い肉の塊がそこにあった。私はただの有機物になってしまったハルを眺めた。真っ赤な夕日に染まった、ハルだった体。眩しくてまた目を閉じた。耳鳴りはもうしなかった。
硬いベッドの上で目を覚ますと、辺りは真っ白な世界だった。天井も、カーテンも、シーツも、見たことがないくらいに真っ白で、何だか私はここに居てはいけないような気がした。鼻先でふっと笑うと、ママは怯えた目でこちらを見た。パパは窓際に立って携帯電話を操作している。ベッドに縛り付けられて、体が動かない。全身に痺れたような感覚。
「何てことをしたの…」
ママはベッドに突っ伏して泣いた。白々しいくらいに薄っぺらな泣き声は、真っ白な世界の空を舞った。パパは窓の外を見ている。そこにある何もかもを視界に入れないようにしているようだった。
笑うしかなかった。頬を動かすと突っ張るような痛み。顔も切ったんだ。皮膚を破る音と、乾いた笑い声。見開いた両眼は白い天井のシミを探す。化け物を見るような眼で私を見る両親と、私はこれからどうやって生きて行けば良いのだろう。
白いベッドの上で、何ヶ月も過ごした。体はまだ完璧ではないけれど、いつの間にか勝手に動くようになった。どれだけ笑っても皮膚を破る音はもう聞こえない。白い部屋に音は無くて、何度もハルが耳元で「ありがとう」と囁いた。
窓の外、夕焼けこやけのメロディが流れる時刻になると、セーラー服の少女が降ってくる。毎日毎日、同じタイミングで、赤いスカーフで顔を半分隠しながら、手首から先だけの恋人を連れて彼女は降ってくる。目が合うと彼女はにやっと笑う。とても幸せそうな顔で。
彼女の姿を確認すると私は目を瞑り、あの日の夕日をまぶたの裏で上映する。耳の穴に生ぬるい涙が流れ込む頃、ようやくハルの顔を思い出した。パンツくらい見せてあげれば良かったな、なんて笑う。白い部屋が真っ赤に染まる。
少女の顔を自分にすり替えて、鼻の頭に触れる。ぐちゃぐちゃに潰された肉の塊がそこにはある。血にまみれた指で鋭い痛みを撫でることを想像すると、よく眠れるのだ。幸福な溜息を吐いてゆっくりと目を瞑る。そこにはあの日の夕日がまだ広がっている。
(2010/1)
――ぼくらにはもう何もないんだ。
薄闇の中に、ロビンの低い声が響いた。数時間ぶりに発せられた声は少し掠れているようで、言葉のあとに続けて小さな咳ばらいをした。
手探りでペットボトルの水を見付け、ロビンに手渡す。一口飲んでゆっくりと足元に置き、何度か咳ばらいを繰り返してようやくいつもの声に戻った。ごめん、と呟く。
――最後に何か見たいものはある?
少し考えてはみたものの、何も思い浮かばなかった。この生活を続けてもうどれくらい経ったのだろう。家族の顔すら忘れてしまった。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、妹。飼い猫のジャムとピンク。最後に見たいものは家族の顔ではないということだけは明確だった。
しばらく考えていると、ロビンの冷たい手のひらが私の頬に触れた。暗くて顔はよく見えないけれど、きっと笑ってはいない。悲しそうな顔で私の目を見つめているに違いない。
手首を掴み、手の甲にそっと口づけをする。唇に冷たさが伝わるほど熱の無い手。
ベッドと本で部屋の半分以上が埋まってしまうこの空間で、私とロビンは呼吸を重ねている。ロビンは日本人なのに、僕はロビンだ、と名乗った。本当の名前が嫌いだと言っていた。
もう何年か前に出会った私たちは、寒い冬の勢いに任せて共同生活を始めた。私は家族が嫌いで、学校も嫌いで、友達は居なかった。十歳にして絶望というものを毎日噛みしめていた。誰かがこのつまらない日常から連れ出してくれることだけを祈り、夢ばかり見ていた。そこに現れたのがロビンだった。
――西嶋レンちゃんだね。いつも君のことを見ていたよ。
青い帽子を被った背の高い男はそう言って、私の手を引いた。
「もしかして誘拐してくれるんですか?」
ロビンは一瞬驚いたような顔をしたが、ゆっくりと口元を動かし、そうだよ、と答えた。
恐怖など何も無かった。殺されても構わないと思っていた。無理矢理犯されてバラバラに切断されても、この腐った世界に生きているよりはましだと思った。
カーテンを閉め切った、薄暗いアパートの一室。蛍光灯は取り外されている。
――眩しいのは苦手なんだ。
私も、そう言うとロビンは大きな手のひらで私の頭を撫でた。安堵の溜息が漏れる。来るべき場所に来たような、居るべき場所に戻ったような。
それから私はロビンの部屋から一歩も出ていない。食べるものは十日に一度、ロビンが外から調達してくる。ロビンは大人なのに働きもせず、ずっと部屋に居る。本を読むときだけ小さな照明を点ける。それ以外はカーテンの隙間から差し込む僅かな光だけでお互いの姿を確認する。
私たちは何日もそうやって暮らした。二人が横になればいっぱいになってしまう小さなベッドに寝そべって、ロビンの本を借りて読むのはとても楽しかった。私が生きてきた十年ちょっとの時間の中で、初めて「楽しい」という感情を体感したかも知れない。
ロビンは私を殺したり無理矢理犯したりすることは無かった。そばに寄って不意に手が触れただけでも、ごめん、と謝った。
――何もなくなってしまった。
もう一度ロビンがそう言った。貯金が尽きたのかも知れないし、アパートを追い出されることになったのかも知れない。事情は分からないし、聞いてもきっと本当のことは教えてくれない。私は頷いてロビンの手のひらを握った。
――君さえ居てくれればそれで良いと思っていた。でも、そういう訳には行かなくなってしまった。僕は最低な人間だ。君の未来まで奪おうとしている。
淡々とした口調で言葉を繋げる。それはまるで子守唄のように暖かく、希望に満ち溢れている。
私はロビンの首に手を回して抱き付いた。ロビンはそれを振り払おうとして拒絶したけれど、私は無理矢理体を寄せた。小さな嗚咽を上げるロビンの頭をそっと撫でる。いつも私にしてくれていたように。
「大丈夫だよ。私をあなたが望む未来へ連れて行って。二人ならきっと怖くないよ」
叫び声に似た嗚咽を上げながら、ロビンは私の体を力無く抱き締めた。抱く、というよりは、触れる、という表現の方が近いかも知れない。弱々しく、それでも私の自由を奪える程度に。
――ひとりはとても寂しかった。だから君をここへ連れて来た。君が居てくれて本当に良かった。君が居なければ僕はもうとっくに死んでいた。生きていたって何の役にも立たない人間だけれど、ひとりで死ぬのは怖いんだ。
ロビンの額に私の額を重ねる。長く伸びた前髪が二人の邪魔をする。ゆっくりと髪の毛を掻き上げると、額から少しの熱が伝わってきた。
僕はいつまでも生きていられない。誘拐という立派な罪を犯してしまったし、今更社会に出てどこかに就職する手立てもない。でもひとりにはなりたくない、ひとりはとても怖いんだ。
もういいよ、大丈夫だよ。何度も同じ言葉を重ね、ロビンの頭を撫でた。長い沈黙が訪れたあと、ロビンの額に口づけをすると、小さく声を上げて笑った。
小さな照明を点け、狭いベッドに横になる。手のひらを重ねて天井を見上げた。山積みになった本の影が映る。
「ありがとう」
そう言うとロビンが私の手のひらを強く握った。握り返そうとしたけれど、さっき大量に飲んだ白い錠剤の所為か体に力が入らなかった。ゆっくりと目を閉じ、ロビンの体温を感じる。夢の続きを見るように、全身が柔らかな光に包まれる。私たちはそのまま、二度と醒めない眠りに落ちて行った。
(2009/12)
その冬、わたしは多分その小さな町で一番の「死にたがり」だった。何度も剃刀の刃をあてた両腕はぼろぼろで、大型動物の皮膚のように分厚く腫れ上がっていた。薬の飲み過ぎで常に意識は朦朧としていたし、頭の中は「如何に楽に死ねるか」という思考だけがぐるぐると支配していた。本当に今すぐにでも死にたいのなら、去年丘の上に出来た二十階建てのマンションの屋上から飛び降りれば良いだけだし、一時間に一本しか無い私鉄電車に飛び込めば一瞬で死ぬことが出来る。それをしないのはわたしがただの「死にたがり」で、本当に死にたいなんてことは思っていないからだった。死にたくなる理由は沢山沢山あったけれど、それは少し見方を変えるだけでいくらでも生きるための糧になり得る気がした。それでもわたしは死にたがった。死にたがっている自分に酔っていたのかも知れない。
その冬で一番冷え込んだ日の朝、わたしはインターネットの通信販売で手に入れたサバイバルナイフと、いつも腕を切るために使っている桃色の剃刀を持って外へ出た。町はまだ薄暗く、たまにすれ違うひとたちも肩をすくめてうつむいていた。皆早足だった。その中を、わたしはゆっくりと歩く。薬を沢山飲んだのに眠れなかった。耐性が付いてしまっているのだ。わたしにはきっともうどの薬も効かない。死ぬための手段を一つ断たれてしまったようで、ひどく悲しくなった。
しゃり、しゃり、しゃり。雪なのか霜なのか、足元は凍っているのか、外はどれだけ寒いのか、分からなかった。薬を飲み過ぎた所為だろう。覚束ない足元は蛇行しながら目的地へ向かう。
「死ぬ勇気なんて無いくせに」
一ヶ月前、妹がわたしに向かって吐いた言葉がぼんやりと頭に浮かんだ。なんて陳腐なセリフなのだろう。そんなの最初から分かっていることではないか。死ぬ勇気があれば、わたしはもうとっくに死んでいる。
「いつまでも家に居ないでちょうだい、邪魔なのよ」
そうだ、わたしはもう二十歳を過ぎた成人なのだった。普通ならちゃんと働いて、こんな田舎の小さな町なんてとっくに出て、県外で一人暮らしでも満喫している頃だろう。確かに二十歳を過ぎた娘が働きもせず、ずっと家に居たら邪魔以外の何物でもない。
それでも母が吐く溜息の数に比例するかのように、私が家に居る時間はどんどん長くなって行った。今では立派な引きこもりの完成である。ろくな食事をしていないので、体は骨と皮だけの気持ち悪い姿になってしまった。頬はこけ、目の下には常にクマを作り、眼球だけが大きく見開かれた不気味な顔。わたしは一昨日の夜、部屋にあった唯一の鏡を割った。それで腕を切ったら何とも言えない爽快な気分になった。
線路沿いの道をゆっくりゆっくり歩く。家を出る前に飲んだ水道水の所為で胃の中がぐらぐらと煮えたぎっているようだ。吐きたくても吐くものが無い。
そういえば醤油を一升飲んで死んだひとが居なかったっけ。一升って何リットルだ?醤油で自殺はちょっと格好付かないな。出来もしないことを考えながらわたしは歩く。死にたがりやの妄想が現実に変わることは無い。
物心付いた頃からだろうか。母はいつもわたしに「普通」を求めた。「普通」に勉強して「普通」に学校に行って「普通」に卒業して「普通」にどこかの会社に就職する。そうすれば「普通」に幸せな結婚が出来るから。それが母の口癖であり、母自身が生きて来た道だった。
わたしは「普通」になろうと頑張った。「普通」に学校も通った。「普通」に卒業もした。「普通」に就職もした。でも母が求める「普通」にはなれなかった。挫折したのはいつだっただろう。もう忘れてしまった。これでも頑張ったつもりなのにな。今のわたしはどうやら「普通」ではないようだ。
かんかんかんかんかんかんかんかん。踏切越しに始発電車が通り過ぎる。冷たい風が一気に目の前をかっさらい、私は思わずよろけてしまう。今飛び込んだら死ねたかな、なんて非現実的なことを思い浮かべつつ、線路の向こう側へと歩く。
「ねえ」
かすれた声がわたしの背中越しに通り過ぎた。低い、男の声だ。まさかこのわたしに向けられた言葉ではないだろう。そのまま足をゆっくりと前に進める。
「ねえって」
先程よりも強い口調で、声が背中に突き刺さる。周りには誰も居ない。わたしは思わず振り返ってしまう。
「ちょっと道聞きたいんだけど」
長い髪を一つにまとめた痩せぎすな男が早足でこちらに向かって歩いて来ていた。どうやら男はわたしに声を掛けたようだった。長い間声を発していなかったわたしは、裏返った声で返事をした。
男は隣町の駅に行きたいのだと言った。それならこうこうこうで、こう行けば良いですよ。親切にもわたしは教えてあげた。男は「ありがとう」とにっこり笑い、わたしの手を握った。びっくりして振りほどこうと何度も腕を上下に回したが、薬で力が抜けているわたしが成人男性の強い腕力に敵うわけもなかった。
「大丈夫、大丈夫」
男はそう呟きながら、わたしをどんどんわたしの意思とは反した場所に連れて行こうとした。何が大丈夫なのか分からない。恐怖で声が出ない。脚がもつれて転びそうになるたび、男は私を両腕で支えた。でも握った手を離すことはしなかった。
男は線路沿いに停めてあった白い車にわたしを乗せようとした。私は抵抗する。サバイバルナイフの存在を思い出し上着のポケットを探ると、出て来たのは剃刀の方だった。
「あっぶないなあ、何持ってんの」
男はにやにやした顔つきで私の剃刀を取り上げると、線路に向かって投げた。
「へえー、あんなんでいつも腕切ったりしてるんだ」
いつの間にか露出している腕。昨日切ったところは血が固まってかぴかぴに乾いている。男はゆっくりと腕をさすると、力を込めてわたしの腕を反対方向に曲げた。ぼき、とかそんな音がした。痛い。勝手に涙が顔の上を流れて行った。
「そんなに死にたいなら手伝ってあげるよ」
男はわたしにキスをした。二十年ちょっと生きて来た中で、初めてのキスだった。私は恋愛というものをしたことがないのだ。男性経験ゼロ。きっと処女のまま死んで行くのだと思っていた。
男の口はヤニ臭くて、粘っこい唾液の味がした。
「ささ、乗って乗って」
無理矢理車の後部座席に押し込められると、そこにはガムテープで口と腕を塞がれた女の子が居た。女の子は私を見ると大きく目を見開き、何かを叫んだ。よく見るとそれは、一ヶ月前わたしに暴言を吐いた妹だった。
「暴れて大変だったんだよ、あんたの妹。もうすぐ二人とも楽になるからね、もうちょっと我慢してね」
間もなくわたしの口にもガムテープが巻かれ、変な方向に曲がった腕も無理矢理後ろ手にぐるぐる巻きにされた。恐怖と痛みで涙がどばどば溢れてくる。妹は何かを訴えていたが、何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「あ、二人とも退屈だよね。テレビつけてあげるね」
カーナビの画面に映し出された教育テレビでは、無邪気な子供たちが笑顔で走り回っている。時折画面がざざざっと音を立てて乱れた。男は上機嫌で鼻歌を歌っている。暫くすると妹は静かになった。
薬の所為なのか体がもう麻痺してしまったのか、いつの間にか痛みはもう全く感じられず、体がもう自分のものではないようで、わたしはわたしという入れ物に入った感情だけの生き物のように思えてきた。頭の上でぐるぐるまわる童謡も、恐怖に侵された妹の黒い瞳も、そこに在ってそこには無く、すべてが夢のようで、にせもののように思えた。
このまま死ぬのかな、まだ死にたくないな。あんなに死にたがっていたのに、現実として「死」を目の前に差し出されると「生」にすがってしまう。これは生物としての本能なのだろうか。
わたしの家は、どこにでもあるような至極一般的な「普通」の家庭だった。無口で笑わない父親と、口うるさくいつもヒステリックに喚いている母親。出来の悪いわたしを常に見下している妹。絵に描いたような「普通」の家庭に生まれ、「普通」に生きて来たつもりなのに、今この状況は確実に「普通」じゃない。
妹は何故ここに居るのだろう。わたしがあの道を通ることを知っていたのだろうか。わたしは滅多に外出をしない。今日だって、外に出たのは実に二ヶ月と十日ぶりだ。そしてこの男は一体誰なのだろう。
遠くなって行く意識の中で、数多の疑問符が浮かび、解決しないまま消えて行った。遠退いて行く童謡と共に強くなって行く耳鳴り。わたしは本当に死ぬのかも知れない。
がこん、という音がして、車が止まった。フロントガラスには隙間無くひびが入り、中央より少し右にそれた部分にいびつな穴が開いている。その穴はいつの間にかどんどん広がって、誰かの腕が差し込まれる。細く華奢な腕から垂れる鮮血は、朝日をバックにきらきらと輝いていた。腕は男に近付く。鼻歌を歌っていたはずの男はぴくりとも動かない。そのかわり、ひっ、とか、ううっ、とか変な声が漏れている。腕は伸びる。どんどんどんどん、男の首に向かって伸びる。既に人体の域を逸している。
助手席のドアが開く。誰かがわたしに手を差し伸べている。逆光で顔が見えない。現実が巻き返す。ビデオカメラを持った男が後部座席のドアを開けた。フロントガラスのひびも、華奢な腕も、跡形もなく消えている。引きずり降ろされる妹。
「はーい今から公開処刑(笑)しちゃいまーす」
ビデオカメラを持った男が言う。ここはどこだろう。車の外には沢山の人影が見えた。
「はい、とっとと降りてねー」
妹が座っていたシートの上には黒いしみが出来ていた。引きずられながらその上を通り過ぎると、一瞬だけ血のにおいがした。
急に目の前が明るくなって、朝日が眼球を直撃する。眩しくて人の顔を認識出来ない。
「はいこの可愛い姉妹はー、ご両親に捨てられたかわいそうな子たちでーす。借金のカタに売られちゃいましたー。好きにして良いそうでーす。あまりにもひどいのでー、その様子をご両親にも見てて頂きまーす」
わずかに残っていた力を振り絞り、ゆっくりと顔を上げると、目隠しをされた男女が少し離れた場所に座っているのが見えた。あれが父と母のようだ。家を出て来る時には寝ていたはずで、着ているものもパジャマ一枚だ。母は微動だにしない。父はうなだれて、時折弱々しく首を横に振ったりしている。父と母はずるずると二人の男たちに抱えられ、わたしと妹の前にどさりと放り投げられた。
「ちょっと暴れてムカついたのでー、ママの方は先にやっちゃいました!でもちゃんと見ててもらうからねー」
男はそう言いながら目隠しをしていたタオルを外した。そのタオルはわたしが小学生の時から家にあったものだ。母の首には赤い線がくっきりと残っている。目は見開かれ、宙を仰いだままだ。父は何かぶつぶつと呟いている。内容ははっきりとは聞こえない。父の声を聞くのは何年振りだろうか。父の目線も定まらず、空を泳いでいる。青いパジャマの股間の部分は、そこだけ色が濃くなっていた。
父と母の向こう側には、わたしが死に場所の一つとして決めていた丘の上の二十階建てのマンションが見えた。反対側まで来てしまったのに、今の方がより「死」に近付いている。
「ごめんね、すぐ終わるからね」
男は満面の笑みでそう言うと妹の腹を蹴った。どん、という音と、ぐっ、という呻き声が混じる。
「妹の方はまだ使い道があるのでー、飢えたオオカミくんたちのエサにしちゃいまーす!」
男は遠巻きに見ていた一人の男にビデオカメラを渡すと
「好きにして良いから。最後は殺っちゃっても構わないしー」
と言って妹の背中を蹴った。ぐえっという声と共に、妹はアスファルトの上を転がって行った。よく見ると妹は高校の制服を着ている。そういえば昨日は帰っていなかった。わたしが家を出たあとに何かが起きたのだろう。妹は数人の男たちに抱えられ、ワゴン車の中に連れて行かれた。うなだれた父はぶんぶんと頭を振った。
「お姉ちゃんの方はどうしようもねーなー。汚いし臭いし不細工だし。風呂入ってねーだろ?こんな貧乳のクサマンには誰も欲情しないもんなあー」
男はそう言いながらわたしが着ているものを一枚ずつ剥いでいった。寒い。
「あれー?こんなものまで持ってるんだー?」
家を出る時にポケットに突っ込んでおいたサバイバルナイフが男の手に握られている。ああもう終わりだ。殺される。どうせ死ぬならとっとと死んでおけば良かった。頭の中を生まれてからの記憶が勢いよく引っ張り出されて行く。これが走馬灯ってやつなのかな。
「お姉ちゃんさー、これでお父さんやっちゃってくんない?俺もう無闇に人殺したくないんだよね(笑)だからこれでずばっと!ぐさっと!やっちゃってよ。ね?」
男はわたしの頭を撫でながら言った。
「お父さんもうあんなんだし使い物になんないからさ。ね?お願い!」
目の前で両手を合わせる男。父との思い出など何一つ無いが、どんな形であれ父であることに変わりはない。わたしには父の血が流れているのだ。それを今、ここで、殺せ、と。
父はがたがたと震えている。心無しか股間のしみが大きくなっているように見える。わたしはうなずいた。
「本当に?ありがとー!んじゃぱぱーっとやっちゃってね。喉切れば一瞬だからー」
男の手により下着だけの姿にされたわたしは、巻かれたガムテープを解かれ、腕と口が自由になった。左腕はまだ変な方向に曲がっているが、不思議と痛みは無い。男が父の横腹を蹴ると、父は一回転して仰向けに寝そべる形になった。視点は相変わらず定まっていない。
よろよろと立ち上がり、父の上に跨る。歯を食いしばっているのか、ぎりぎりと不快な音が耳をつく。
こんなにも父は小さかっただろうか。幼い頃、何の理由も無く殴られたことがあった。その頃の父は物凄く大きく恐ろしい生き物で、敵うことは無い絶対的な存在だった。それが今、目下にある父に向かってわたしはナイフを振りかざそうとしている。下剋上である。
「ぱぱーっとね。勢いよくやった方がお父さんも苦しまないで済むよ」
男のアドバイスに従うように、わたしは両手に力を込める。左手は右手の半分くらいしか力が入らないが、まあ何度か突けばどうにかなるだろう。
父と目が合った。恐怖におののいた目。まさか娘に殺されるなんて。まさか娘は自分を殺さないだろう、そう思っていたりするのだろうか。この状況下においてそれは厳しいか。深く息を吸う。
「おわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
わたしは父の喉元に向かってナイフを突き刺した。叫び声は勝手に出て来た。ずぶり、ずぶり。何度も抜いては刺した。ごぼごぼと溢れ出す赤黒い血液。返り血が目に入ってもわたしは腕を振り下ろすことを止めなかった。
「激しいねえ、もうお父さん死んじゃったよ?もう止めても良いよ?」
隣で男が笑いながら言う。血液で持ち手の部分がぬるぬると滑る。ナイフが手のひらからこぼれ落ちるまでわたしは止めなかった。足元に居る父も、その上のわたしも血まみれで、アスファルトの上に大きな血だまりが出来た。
「よくやったね。ありがとう。意外と使えるじゃん」
男は二度目のキスをした。鉄くさい、乾いた味がする。そのまま男はわたしを横に倒し、血まみれになった下着を剥いで股の間に指を突っ込んできた。内臓をえぐられるような激痛が突き抜ける。歯を食いしばると自然に涙が溢れた。
「お姉ちゃんもしかして処女なの?マジで?そっかあ、じゃあ死ぬ前に良い思いさせてあげないとねえ」
男はわたしを引っくり返し四つん這いの形にさせると、ナイフで股の間をなぞった。
「逃げたらだめだよ。ぶすっといっちゃうからねー」
ひんやりと冷たいそれは、わたしの恐怖を助長させるのに十分な凶器だった。でも、既に何もかもが麻痺してしまっている。わたしは「普通」ではないし、母は殺され、父親は娘のわたしが殺してしまった。車の中で数人の男たちに犯されているであろう妹を助けることも出来ない。わたしに残っているものと言えば「死」という現実だけで、もうどうなってしまっても許せるような気がした。
男がかちゃかちゃとベルトを外す音が聞こえてくる。ナイフが肌から離れると同時に、一気に男の中心がわたしの体を貫いた。痛い。痛い。痛い。涙はもう出て来ない。聞こえるのは男の荒い吐息と、わたし自身の口から洩れる、うっ、とか、ぐっ、とかそういう声だけ。目を瞑って思い出す。楽しかった出来事、嬉しかった出来事。残念ながら何も浮かばなかった。余計に痛みの感覚が増しただけだった。
「気持ち良いだろ?なあ?死ぬ前に良い思い出来て良かっただろ?」
男の動きが一気に速くなる。あああっ、という声と共に男の動きが止まった。射精したのだろうか。もう終わったのだろうか。何しろ経験が無いのでわからない。暫くすると男の体が背中にのしかかってきた。重い。
「お姉ちゃん、そこどいて」
男の体の下から這うように出ると、体の中に入っていたものが一気にずるんと抜けた。ぽっかりと穴が空いたような感覚。鈍い痛みは今頃やってきて、脈に合わせてずきずきとそこを震わせる。
上体を起こすと、正面にはわたしと同じくほぼ全裸で血まみれの妹が立っていた。男の首にはバタフライナイフが刺さっている。妹は男の背中に跨りナイフを抜くと、何度も男の襟首や背中に向かってナイフを突き刺した。きっと父を殺したわたしの姿も、今目の前にある妹の姿と何ら変わりは無かっただろう。返り血が妹の白い肌を汚す。わたしはそれを見ていることしか出来なかった。
「お姉ちゃん、わたしたちこれからどうしよう?」
ワゴン車の中には男たちの死体、アスファルトの上には両親とわたしの処女を奪った男の死体。死体に囲まれて、わたしと妹は途方に暮れた。
妹は、護身用に常にバタフライナイフを持っていたのだと言った。そして、いつでも死ねるように、剃刀も持ち歩いていた、と。妹もわたしと一緒だった。腕に出来た無数の傷を見せ合って、傷口を重ねると笑えてきた。辺りはすっかり明るくなり、陽に照らされる沢山の死体を見ながらわたしと妹は心を決めた。
「わたしたちってさ、『死にたがり屋』だけど『殺し屋』にもなれたね(笑)」
「あんまり嬉しくないけどね(笑)」
「お姉ちゃん、いっぱいひどいこと言ってごめんね」
「良いよ、今更。あんたは可愛いんだからまだ人生これからだったのに」
「もう良いんだ。だってわたし『死にたがり屋』だもん」
「ふふふ。『死にたがり屋』の姉妹だね(笑)」
「ね(笑)」
「じゃあそろそろ終わりにしようか。逃げ道も無くなっちゃったし、生きてるのもしんどいし」
「うん。あんまり痛くしないでね」
「多分無理(笑)」
せーーーーーーのっ。
わたしと妹は同時に互いの喉を掻っ切った。その瞬間、妹は笑っているように見えた。多分わたしも笑っていた。
喉元に熱い痛みが走り、どくどくと口から血が溢れ出る。妹がわたしの膝の上に倒れ込むのと同時に、わたしは妹の背中に頭を乗せた。腹部に熱がこもる。血液やら体液やらよく分からないものたちが飛び散っている。最後の力を振りしぼり、わたしも妹の背中にサバイバルナイフを突き刺した。ぐぇっ。妹の口から大量の吐瀉物がこぼれ落ちた。
すべてがスローモーションだった。ゆっくりと時間は経過し、確実に「死」に導かれて行く。妹の背中越しに二十階建てのマンションが見えた。それが最後に見た景色だ。
まぶたが重くなる。ひどい耳鳴りがゆっくりと思考を低下させ、わたしはずぶずぶと眠りの森に引き込まれて行く。温かい妹の体温を感じながら、「死にたがり」の妄想は現実となった。
(2009/4)
ただのメモです。