忍者ブログ
2024.05│ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
世界の終わり。
2024年05月22日 (Wed)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2010年06月26日 (Sat)

 目を開けても闇が広がっていた。肌に馴染んだシーツの感触と、嗅ぎ慣れた血の匂いが、僕を夢から現実まで引きずり上げる。ついこの間まで動いていた時計は止まってしまった。今が何時なのかも分からない。闇の中、心臓だけが強く打ち始める。
 手探りで彼女の手のひらを探した。小さな、傷だらけの手のひらは、遥か遠くに転がっていた。必死でたぐり寄せ、壊してしまわないようおそるおそる握る。弱く握り返した瞬間に、彼女の呼吸を感じて僕は安堵する。
 もう何回目かも分からない。彼女の死にたがりの癖は、ただの癖だと分かっていても毎回僕を絶望に陥れる。

「ごめんね、また切っちゃった」
 メールと一緒に添付されたずたずたの腕と、真っ赤なタオル、カミソリ、血の溜まった洗面器の写真。嫌な予感はしていた。昨日彼女の家に行けなかったことが、僕はずっと気に掛かっていたのだ。目の前が真っ暗になる。倒れてしまいそうだ。全身をねばついた汗が流れて、僕は発作的に彼女の家まで走り出していた。
 息を荒げながら合鍵でドアを開けると、彼女は涙を浮かべて笑っていた。狂気じみたその笑顔に、居ても立ってもいられなくなり、一目散に走り寄る。
「えへへ、ごめんね、またやっちゃった」
 血まみれの手で彼女は僕の頭を優しく撫でる。胸に顔を寄せて、彼女が生きていることを確認する。目の前で動いていても全て僕の錯覚であるような気がして、体温を感じるまではそれを信じることが出来ない。
「切るのは構わない、でも、絶対に一人で死なないで。その時は僕も一緒に逝くから」
 何度交わされた会話だろう。彼女は申し訳なさそうに何度も「ごめんね」と呟く。僕は馬鹿みたいに涙を流した。血の溜まった洗面器に落ちた涙が溶けて行った。
 僕がそんな厄介な彼女を見捨てられないのは、数年前の僕を見ているようだからだと思う。僕には彼女の中の闇を取り払うことが出来ないのかも知れない。それでも、どうしても手放すことなど出来なかった。

 傷だらけの体を抱き寄せ、胸に顔を当てる。微かな鼓動が、僕の不安を少しだけ軽くする。冷えてしまった体を温めるように強く強く抱き締めると、彼女はそれに応えるかのように僕にしがみついた。目が慣れると同時に、闇が少しずつ薄くなる。灰色の視界に、ぼんやりと彼女の輪郭が浮かび上がった。頼りない小さな腕が、僕の自由を奪う。
「どこにも行かないでね」
 かすれた声が静寂の中に響いた。彼女の不安はどうしたら拭うことが出来るのだろう。僕は彼女に出会って自分に傷を付けることはなくなったけれど、僕にとっての彼女に、僕はなれないのだろうか。
「うん、ずっとそばにいる」
 永遠なんて存在しないことを、僕自身が一番よく分かっている。それなのに、僕はまた嘘を吐いてしまう。彼女は僕の嘘を嘘だと見抜いているのかも知れない。だから腕を切ることをやめられないのかも知れない。
 熱を取り戻した小さな額に口を付けると、彼女の頭が動いて僕の唇を探す。冷たい唇は、ほんのり鉄の味がする。血を全て舐め取って僕の唾液を流し込むと、ようやく彼女の味が還ってきた。
 柔らかい体に絡み付き、彼女の細部まで口を付ける。その度に上がる小さな悲鳴に、僕はとても興奮する。
「どこにも行かないで」
 小さな体を侵してしまうと、彼女は何度も同じ言葉を囁いた。僕は何度も嘘を吐く。いや、嘘じゃない。ずっとそばにいたい。でも、明日がどうなってしまうかなんて、僕も彼女も分からないのだ。
 永遠は保証されていないことを、僕は彼女に出会うまで知らなかった。彼女はいつも綱渡りをしている。孤独で過酷な作業を繰り返し、自分で自分を追い詰めている。何が彼女をそうさせるのか、本当のところは僕にも分からない。
「自分が嫌いだから」
 彼女はそう笑って言う。僕が今の彼女だった頃、僕も同じことを思っていた。でも、僕は彼女と出会って変わった。僕にとっての彼女に、僕はなりたい。それなのに。
 彼女は常に死と向き合っている。自分で死への道を選んで歩いている。彼女がいつまでもここにいるとは限らない。今日ここにあった体が、明日にはもう動かない。今僕の下で笑う彼女が、次の瞬間には呼吸を止めている。そんなことがあっても何もおかしくはないのだ。
 小さな空洞に射精をすると、彼女は僕の頭を抱き寄せて
「ありがとう」
 と言う。いつもだ。何に対する「ありがとう」なのか、未だ聞いたことはない。僕はうなずき
「どういたしまして」
 と返す。すると彼女は笑う。彼女を否定することだけはしたくない。否定されることは、とても悲しいことだ。それは僕もよく知っている。

「ホットミルクが飲みたくない?」
 腕の中で、彼女は小さく言った。汗ばんだ体にそれはあまり似つかわしくない気がして
「冷たいのじゃなくていいの?」
 と聞いた。
「うん、お砂糖いっぱい入れた甘いホットミルクが飲みたい」
 彼女は恥ずかしそうに笑う。彼女が望むなら、どんな熱いミルクでも飲み干してしまいたい。
 足元に転がる血の匂いがするものたちを蹴飛ばしてしまわないよう注意を払いながら、薄闇に目をこらしてキッチンへ向かう。流しの上の小さな蛍光灯の紐を引っ張ると、その明るさに目が眩んだ。
「眩しい、ね」
 Tシャツ一枚と下着だけの彼女は、そのまま崩れ落ちてしまいそうな細さだ。冷蔵庫を開けると、ヨーグルトとフルーツゼリーが並んでいる。それ以外には飲み物しか入っていない。彼女の食生活はずっとこうだ。変わらない。ポケットから牛乳を取り出し鍋に注ぐと、彼女は背中にしがみついた。
 ほのかな体温を感じながら、鍋を火にかける。焦げてしまわないように静かに揺らす。湯気が立ち始めたのを確認し、火を止めると彼女の体が離れた。細い腕が二つのマグカップを差し出す。去年買ったおそろいのマグカップの片方は割れてしまったから、違う大きさのカップだ。彼女は自分の体を傷付けるためには、その道具さえも厭わない。片割れのマグカップは、彼女に破壊され腕の上を滑った。
 砂糖を落とし、カップを抱えて流しの下に座り込む。ミルクは熱過ぎずぬる過ぎず、ちょうど良い温かさだった。猫舌の彼女には少し熱かったかも知れないな、と思い隣を見ると、案の定ふうふうと息を吹きかけていた。
 僕たちは流しの下にもたれ掛かったまま、言葉も無く時間を消費した。沈黙の中に時折響く虫の声が、夏の始まりを知らせている。彼女と出会って二回目の夏がやってくる。
 少しずつ窓の外が明るく始めた頃、ようやく彼女が口を開いた。
「このまま夜が明けないといいのにね」
 うん、とうなずいてカップに口を付ける。白い液体はぬるく、底に溜まった砂糖が流れ込んできて、その甘さに驚く。彼女のカップにはまだ半分以上ミルクが残っている。
 これが全部夢だったら、彼女と出会ったことも、彼女を愛したことも、今ここにいることも、彼女が隣で感じている孤独も、全てが夢だったら、僕は救われるのだろうか。彼女を救うことが出来るのだろうか。
 新聞配達のバイクの音が遠くで聞こえる。街は動き出している。彼女はミルクの残ったカップを脇に置いて、僕の腕を掴む。生々しい傷痕が残る腕に指を這わすと、じわりと血が滲んだ。腕を持ち上げ、傷痕にキスをする。血を舐め取ると、彼女は小さく声を漏らした。
 涙がすぐそこまで出かかっている。まぶたのすぐ裏には沢山の涙が待機しているのに、どうして泣けないんだろう。それは彼女も同じだ。真っ赤な瞳が優しく僕を見つめている。救われたいのは僕の方だったのかも知れない。
 僕は目を閉じた。広がる闇の中に、小さく光る星が浮かんでいる。ここは宇宙だ。二人だけの宇宙。夢ならば、このまま醒めずにゆらゆらとたゆたっていたい。このまま彼女と宇宙の底まで落ちて行きたい。
 それでも僕たちは、どこにも行けないことを知っている。だからこんなにも悲しいのだ。僕はきっと彼女を救えないだろう。彼女は彼女でいることが、きっと一番美しい。
 朝刊をポストに入れる音が、がこん、と大きく響く。僕たちは途方に暮れたまま、朝を迎える。



(2010/6)
 

PR
2010年04月13日 (Tue)
 桜の話をしたことがなかったね。桜は彼女が、夢子という名前の僕の恋人が一番好きな花だった。そして一番嫌いな花だった。夢子は元旦の生まれで、それは雪の降りしきる真っ暗な冷たい冬の日だったんだ。春がうらやましい、というのが彼女の口癖で、実際四月生まれの僕は彼女に相当な数の嫌味を言われたものだ。
「君は私よりあとに生まれた。卑怯だ。しかも四月生まれだなんて頭がおかしい。気が狂ってる。卑怯できちがいでそれなのに私のことを好きだなんて言う。信じられない」
 全く意味の分からない文句を、夢子は時折思い出したようにぶつぶつと呟いた。そのたびに僕はゆっくりと一つひとつ誤解を解いて、優しく抱き締めて頭を撫でてやらなければならなかった。そしてそれは僕にとって最高に幸せな時間だった。腕の中で子どものようにめそめそと泣く夢子がとても愛しかった。
 たった三ヶ月の差だけれど、学年で言えば夢子は僕の一つ上で、その三ヶ月の差が学生時代には物凄く大きな壁として立ちはだかり、僕は夢子と同じ教室で授業を受けることも、一緒に修学旅行に行くことも許されなかった。夢子とはもう生まれた時からずっと近くに住んでいて、幼稚園から小学校から中学校はもちろん、高校も同じ学校に通った。それでも三ヶ月の壁がいつも付きまとい、僕は夢子を一枚隔てた向こう側からしか見ることが出来なかった。悔しくて、歯痒くて、
「僕だってユメと同じ日に生まれたかった。四月生まれだって何も良いことはない」
 そう何度も夢子の前で泣いた。これが例えば、夢子が十二月生まれで僕が三月生まれだったら、同じ学年で、きっと何度も同じクラスになったことだろう。同じ三ヶ月という期間なのに、三月と四月の間には高い高い壁が、そして深い深い溝がある。桜の季節が来るたびに、どうしようも無い隔たりの前で地団駄を踏み、三ヶ月の壁の前で嘆く。それを繰り返していた。だから僕も、桜の花があまり好きではなかった。いつも僕らを上から見下ろしてせせら笑っている気がして憎かった。
 夢子は高校を卒業したあと、就職も進学もせずにぶらぶらしていた。夢子の家は小さな古本屋をやっていたから、たまに店番をすることもあったけれどそんなことは本当に稀で、一日の大半は部屋に閉じこもり、たまに思い立ったように図書館や映画館に行き、長過ぎる日常を過ごしていた。僕はあと少し、あと一年の我慢だ、そう呪文を唱えながら高校三年生という青春時代最後の一年をやり過ごした。全然楽しくなかった。夢子の居ない学校は具の入っていない味噌汁みたいなもので、楽しみが何も無い。休み時間に夢子がふらっと教室を見に来ることも、放課後待ち合わせて同じ帰路を辿ることも、移動教室のたびに夢子とすれ違わないかどきどきすることも、何も何も無い。学校から帰るとその足で夢子の家に行き、部屋の隅で丸くなっている彼女を抱き起こし、抱き締めて首筋のにおいを嗅いだ。
「君はさびしんぼうだなあ」
 そう言いながら夢子は笑ったけれど、それはお互い様だってことを僕も夢子もよく分かっている。薄闇が落ちてくる狭い部屋で、頭から毛布をかぶって僕たちは今目の前に居る恋人という存在を確かめ合った。僕は何度も「好き」だとか「愛してる」とかそういう言葉を夢子の耳元で囁いたけれど、彼女は一度もそれに答えてくれなかった。ただ恥ずかしそうに目を伏せてこくりと頷くだけだ。それが彼女なりの精一杯の愛情表現だった。不器用で身勝手な夢子を、僕は心から愛していた。
 高校の卒業式の日、それはまだ三月が始まったばかりの冷たい風が吹く日で、この長かった一年を思いながら、三年間通った校舎を眺めていた。桜のつぼみはまだ固く、まだまだ咲きそうにない。これからはずっと夢子のそばに居られるのだ。そう考えるだけで幸せで、うきうきして、誰も居ない廊下を全力疾走した。卒業証書を抱えて走る。夢子の家まで。
 古本屋の店先で窓ふきをしていたおじさん、つまり夢子のお父さんに
「ユメちゃんいますか」
 どきどきしたまま、呼吸を荒げたまま聞いた。おじさんは僕の顔を見ると優しい笑顔を浮かべて
「さあ? 今日は朝からおらんかったなあ」
 と答えた。僕は礼をして、一旦家に帰ってから自転車に乗って夢子の行方を捜した。携帯電話の電源は切られていた。無精な夢子にとってそれは珍しいことでもなく、取り敢えず夢子が行きそうな場所を手当たり次第に回った。図書館、駅前の大きな本屋、CDショップ、二人で何時間もくだらない話をした公園、町で唯一のコンビニ、どこにも居ない。僕は初めて不安になった。夢子が僕に何の連絡も無しにどこかへ行ってしまうことなんて、今まで一度も無かった。最悪の事態を何種類も想像して、僕はその場に倒れ込んでしまいそうだった。
 夕方近くなり、風も強くなって来て、ぼくはぼろぼろ泣いた。夢子は今もどこかで寒い思いをしているのではないだろうか。寒がりの夢子だから、どこか室内に居るかも知れない。もしかしたら家に帰っているかも知れない。それでも何だか諦められず、僕は必死で自転車を漕いだ。そして隣町との境で夢子の姿を見付けた。
 夢子は、町境である川のそば、町と町とを結ぶ橋の下でうずくまっていた。僕の姿を見付けると、ぱあっと花が開いたように笑って
「桜の花を見に来たんだけど、まだ全然咲いてなかった」
 と何でも無いように言った。何でも無いように言いながら、夢子が着ているスウェットの左の袖には大量の血が滲んでいてびっくりした。何があったのか尋ねても何も教えてくれない。傍らには血まみれのカッターナイフとバスタオルが落ちていた。袖をめくると皮膚と中のTシャツがくっついて、それを剥がすと更に血がどくどく出て来た。もう夢子は笑っていなかった。
「痛いか? ごめんな。何でこんなことしたの? 怒らないから言ってみ」
 よく見ると夢子のほっぺたにも血が付いていて、首筋にもうっすらと赤い線が浮かんでいた。ゆっくりと、小さな声でぶつぶつと呟き始めたのはそれから大分経ってからだった。それまでずっと僕は夢子を抱き締めてひたすら頭を撫でていた。
「君は、君は、私のことが嫌いになる。今じゃなくても、絶対にいつか、君は私を嫌いになってどこかに行ってしまう」
 嗚咽でほとんど何を言っているのか聞こえなかった。沢山の不満と不安を述べて、最後に出て来た言葉がこれだった。
「そんなことあるわけがない。僕はユメとずっと一緒に居る。どこにも行かない。嫌いになんてなったりしない」
 いつもの意味の分からない文句の延長だと思って僕は夢子をひたすら宥めた。それでも夢子は聞く耳を持たず、首を横に振って泣いた。
「お母さんは、夢子が嫌いになって出て行った。私は自分でも自分が分からなくなる時があるし、どうしようもないくらいに悲しくなって何をしたら良いか分からない、何も出来なくなってしまうことがあるから、そんな子は嫌われて当然なんだ。だから君も私をそのうち私を嫌っていなくなってしまうんだよ」
 冷たい風が吹く橋のたもとで、ひたすら同じことを夢子は訴えた。夢子の母親は彼女が幼い時に離婚して家を出て行って、それ以来一度も夢子に会いに来たことがない。理由はきっと別にあるのだと思う。でも、夢子はそれを自分の所為だと思い込んでいる。そしていつも、僕がそばにいても、その不安を抱えて、またいつか来るかも知れない未来に怯えていた。
 全然知らなかった。ずっと、ずっと長い間夢子のそばに居たのに、彼女がそんなことを思って生活をしていたなんて、何も知らなかった。
「死のうと思った。君は今日卒業式だから、私は君から卒業しようと思った」
 ばかげている。僕は夢子の体を押さえ付けるように強く抱いて、わんわん泣いた。
「首はやっぱり怖くて、手首を切って川に入ったら死ねるかなって思ったけど、寒くて無理だった。死んでしまったらこの訳の分からない不安ともお別れ出来るし、君は私から解放されて自由になれるんだよ? でも、根性無しだから失敗しちゃったなあ」
 少しだけ冷静になった夢子は、まだ桜が咲いていない並木道をぼんやりと眺めながら力無く呟いた。夢子の首筋からは血のにおいがする。日暮れが少しだけ延びた町を、自転車を二人乗りして帰った。僕の背中にぴったりとしがみついて、
「君がいなくちゃ生きて行けないんだよ」
 そう悲しげに言った。夕暮れの町が滲んで見えた。
 夢子を家に送ると、おじさんはまだ窓を磨いていた。夢子の腕の血を見てびっくりしているおじさんに説明をすると、彼まで泣き出してしまった。それから何度か僕たちは話し合いをして、夢子は一度病院に行くことになった。
 桜の花が見下ろせる隣町の病院に、夢子は今も入院している。僕は毎日病院に通って、どこにも行かないことを伝える。夢子はにこにこ笑いながら、僕の頭を抱えて
「君はさびしんぼうだなあ」
 と言う。その瞬間の目はとても優しく慈愛に満ちていて、僕が知っている夢子では無いみたいだ。
 桜の花が豊かな緑色に変わる頃には退院出来そうだという。腕の傷もふさがり、気分を落ち着ける薬を飲んで今はとても安定している。学校に行かなくても良くなった今は、ようやく壁が取り払われて、夢子をこんなに近くで見ていられる。もう桜の季節が来ても憂いたりしなくて良い。それはとても、幸せなことだ。



(2010/4)
2010年04月05日 (Mon)
 雨の日によくあるような片頭痛と耳鳴りがあの日からずっと治まらず、頭の中では電波を受信し損ねたラジオのような音が終始響いて止みません。よく晴れた空はすべてを溶かしてしまうほどの青さで、春の風に揺れる桜の花の薄桃色とのコントラストは死にたくなるほど美しく、今すぐにでもここから飛び降りてしまいたくなります。
 先生、覚えていますか。あの日、深く刻み合った傷の理由を。先生にならいくら傷を付けられても構わなかった。先生は優し過ぎるから、先生の手で私を汚して傷付けて欲しかった。そして私を記憶の底に刻み付けて、一生忘れずにいて欲しかった。先生、私は信じています。いつか先生が私を思い出した時、罪の意識と後悔によって夜も眠れないほど苦しみ、嘆き、涙を流して私の名前を呼ぶことを。
 教師と生徒であることはどこまで行っても変わらない事実で、先生はそれをずっと気にしていましたね。でも先生、私たちは教師と生徒である以前に男と女です。私は先生が好きで、一日中先生のことばかりを考えて何も手に付かず、先生の姿を見掛ければ自分のもので無くなったように心臓は激しく脈打ち、居ても立ってもいられなかったのです。先生が私の名前を呼ぶたび、私の耳は恥ずかしげもなく真っ赤に染まりました。先生はそんな私を知っていたでしょう? だからあの時、先生が言う「あやまち」を犯してしまったのではないですか?
 教師という皮を脱ぎ男に戻った先生は、鍵の掛かったあの美術室の小さな隙間でセーラー服を脱いだ女の私を抱きました。私が先生の名前を呼ぶと大きな手のひらで優しく口を塞ぎ、官能に満ちた声を耳元で囁きましたね。その秘密めいた仕草や流れるような手付きと視線で、私は生まれて初めての痛みと快楽を知りました。両目から勝手に流れ落ちる涙のしずくにキスをして、大きな腕で抱き締められたあの瞬間の喜びを、頭の悪い私は何と言い表すのか知りません。先生の黒い髪の毛とうっすらと汗ばんだ肌のにおいは私を快楽の淵に立たせたまま、虜にさせ、それから何度も私たちはあの小さな隙間で一つになりました。
 最初に誘惑したのは君だ、と先生は言います。無力で臆病な私はただ先生を遠くから見つめることしか出来なかった。それを敏感に読み取り、拾い上げてくれたのは先生です。私たちはしばしばこのことで論議を重ねました。結局いつも答えは出ないまま、私たちは体を重ねることでそのどうでも良い話を収束させました。物事の始まりに理由など無く、それは恋愛に関しても同じで、恋の始まりに理由など要らないのです。
 そして当然の如く終わりはやって来ました。私は、この恋がいつまでも続くものだとは思っていなかった。先生には家庭があるし、可愛い子供と少し気の強い奥さんが居て、そこに私が入り込む余裕も権利も無いことを、私はちゃんと知っていました。
 少しの小細工をして、私は先生に嘘を吐きました。優しい先生を騙すことは胸が痛んだけれど、これは女の私を弔い私を許す作業です。このままこの恋を続けていても苦しくなるだけ、私は先生に対する愛情が暴走し、先生に迷惑を掛けることをひどく恐れました。
 先生は驚き、狼狽し、強く私を抱き締め涙を流しました。その瞬間、大きく地面が歪み、私の頭にぽっかりと空いた穴の中にあのノイズが流れ込んで来ました。先生に傷を付けた罰として、私はこの雑音とも耳鳴りともつかない痛みを一生抱えて生きて行くのです。私は先生に忘れられることを恐れるのと同時に、私自身が先生を忘れてしまうことが怖かった。私たちは同じ痛みを抱えて生きて行くのです。この小さな隙間で狂おしく愛し合った証として。
 桜が咲くにはまだ早い、冷たい空気に包まれたその日、私は卒業しました。私の中には私でないもう一人の人間が居て、それは明日の午後には消えて居なくなり、四月になれば私はこの町を離れ、都会にある大学に進学します。
 卒業式のあと、先生と私はまだつぼみにすらなっていない桜の木の下で、小さなお墓を作りました。あと数十時間後には消えてしまう小さな命と、私たちが過ごした甘い蜜のような時間のお墓です。
「ごめんな」
 先生の大きな手のひらが私の頬に触れ、今にも泣き出しそうな瞳がこちらを向いていました。悪いのは私、一番の卑怯者は私です。それでも私は先生に出会い、恋に落ちてしまった。先生は最後まで優しくて、その言葉は私を余計に苦しませるということを無垢なあなたは知りません。私たちは人目を気にしながらも、肩を寄せ合って泣きました。これで良かったのです。私たちは男と女であるのと同時に、教師と生徒であり、それは卒業した今も変わらない事実なのですから。
 白熱灯に照らされた硬い台の上で、何度もあの小さな隙間での行為を思い出していました。先生は今日も変わらずに教壇に立ち、何事も無かったかのように古文を諭すのでしょう。麻酔が効き始め、頭の中に流れる雑音の音量が上がって行きます。先生、先生、何度呼んでももう届かない場所にあなたは居ます。さよなら先生。冷たい金属音に混じって、遠くであなたの柔らかな声が聴こえた気がしました。



(2010/4)


Prev1 2 3 4 5 6 7 8 9  →Next
最新コメント
[06/27 骨川]
[05/22 くろーむ]
プロフィール
HN:
原発牛乳
年齢:
39
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
職業:
自由人
趣味:
眠ること
自己紹介:

ただのメモです。


ブログ内検索
最古記事