私の記憶は、あの日だけ抜けている。正確に言うと、あの日の十九時から二十一時の二時間だけ。その間の記憶が全く無いのだ。自分が一体何処で何をしていたのか、さっぱり思い出せない。
その直前の記憶は、恋人のあおちゃんと電話で少し話したこと。今から行くから待っててね、そう言って電話を切った。
次の記憶で私はあおちゃんの部屋の呼び鈴を鳴らしている。あおちゃんは私の姿を見て驚き、私の左腕を引っ張って部屋の中に入れた。
何故だか分からないのだけれど、私は制服のワイシャツのボタンが上手く止められなかった。手が震え、無理矢理笑顔を作っても涙がぼろぼろと零れた。
そんな私を見たあおちゃんは
「ごめんね、みーちゃんごめんね」
と強く抱き締めてくれた。あおちゃんの首筋は石鹸の匂いがして、私はそのまま気を失ってしまいそうだった。
その日から私は、家に帰っていない。学校にも行っていない。あおちゃんはずっと私の傍を離れないし、私もあおちゃんの傍を離れられない様な気がしている。
この数日で、あおちゃんはひどく痩せてしまった。私はあの日の記憶を何度も思い出そうとするけれど、決まって具合が悪くなり中断してしまう。あおちゃんはそんな私を泣きそうな顔で見ている。
私は一体どうしてしまったのだろう。何かあおちゃんを悲しませる様なことをしてしまったのだろうか。
あおちゃんの部屋に居着いて一週間ほど過ぎた日の夜、私とあおちゃんはベランダに出て星を見ていた。その日のあおちゃんは、以前のあおちゃんに戻った様に笑い、沢山喋った。白く揺れるあおちゃんの煙草の煙を横目で見て、私はあおちゃんに出会えて良かったなあ、とぼんやり思ったりした。
ふと、笑いながらあおちゃんが言った。
「みーちゃん、星になろうか」
手を繋いで星座の名前の当てっこをしていた時のことだ。なれたら良いねえ、私はそう答え、あおちゃんの冷たい手を強く握った。
あおちゃんはたまに物凄くロマンチックなことを言い出すのだ。あおちゃんの頭の中には今、幾つの星が浮かんでいるのだろう、と私は考える。そんなあおちゃんだから、私は大好きなのだけれど。
あおちゃんの横顔に見惚れていたら、あおちゃんの目から何かが零れ落ちた。あおちゃんは手の甲で急いで拭っていたけれど、私は遂にあおちゃんを泣かせてしまったのだと悲しくなった。
星になれたら、あおちゃんと星になれたら楽になるのかな。そう思いながら紺色の空を見上げると、鮮やかな星が一つだけ流れて行った。あおちゃんがようやく笑ったので私は安心した。その日の夜はあおちゃんの胸の上に頭を乗せたまま眠った。
その翌日からあおちゃんは、星になる準備を始めた。私では無い誰かに宛てた長い手紙を何度も書き直したり、何十時間も掛けて部屋の大掃除をしたり、昔の友達に電話を掛けたり、東北にある実家に沢山の荷物を送ったり。
私はそんなあおちゃんの手伝いを少しだけしたり、あおちゃんが好きなオムライスや唐揚げを沢山作ったり、五百ページ以上もある長い小説を読んだりして過ごした。
あの日の記憶は喉元まで出掛かっているのにずっと突かえたままで、時折私の具合を悪くしてはあおちゃんに心配を掛けた。その時あおちゃんは決まって
「ごめんね、みーちゃんごめんね」
と抱き締めてくれた。その度に私は、何だかとても申し訳無い様な気持ちになるのだった。
もしかしたらあおちゃんは知っているのかも知れない。あの日あの時間にあったことを。でも私は聞くことが出来なかった。またあおちゃんを泣かせてしまう様な気がしたからだ。私の中に漠然と広がる不安にあおちゃんの涙が流れ込んで来たら、それこそ私は生きていられなくなる。怖くて聞けなかった。
あおちゃんが星になる準備を始めて十日が過ぎた頃、あおちゃんは私を抱いた。私があおちゃんの部屋に居着いてから初めてのことだった。私の上で揺れるあおちゃんを見ていたら、少しだけあの日のことを思い出した様な気がする。でもすぐに忘れてしまった。
「このまま時が止まってしまえば良いのに」
体が痛くなる程強く私を抱き締めながらあおちゃんは言った。そして私の中で大きくなり、果てた。
相変わらずあおちゃんはロマンチストだなあ、なんてことを思いながら、私はあおちゃんの頭を撫でた。
翌日、私とあおちゃんは電車に乗って出掛けた。行き先は分からなかったけれど、あおちゃんに聞くことはしなかった。あおちゃんとなら何処に行っても幸せになれると思ったからだ。
はぐれない様に、とあおちゃんは手首と手首を紐で結んだ。えへへ、と笑う私の頭を撫でるあおちゃんの目は、優しい焦げ茶色をしていた。
それから電車を何度も何度も乗り継いで、私とあおちゃんはこの場所へ来た。
名前は分からない。でも星が沢山見える、とても眺めが良い所だ。辺りはすっかり暗くなっていたけれど、あおちゃんの手の温もりが心強かった。
「みーちゃん、僕達も星になろうね」
私は、うん、と頷く。
一、二、三、と数えた後、私とあおちゃんは高くジャンプした。ゆっくりと降下する空気の中であおちゃんの顔を見ると笑っていた。目が合うと私も笑った。
そして私は思い出した。あの日の記憶、二時間だけの記憶。
私の上で動いているのがあおちゃんでは無かったこと、何度も何度もあおちゃんの名前を呼んだこと、恐怖、悲しみ、頬を伝う冷たい涙、汚れてしまった制服、無くしてしまったリボンとあおちゃんに貰ったピアス、夢であります様に、そう何度も願ったこと。
あおちゃん、あおちゃん。
辛い思いをさせてごめんね。
あおちゃんと星になれて、私は幸せだよ。
視界が歪み、体中に熱が走る。次に生まれて来る時も、あおちゃんに出会えますように。
そして私とあおちゃんは星になった。
(2006/?)
(2008/8 ちょっと修正)
ただのメモです。