世界の終わり。
溶けてしまったバニラアイスにたかる黒いアリの列が、剥き出しの太陽の下で照らされている。
僕は躍起になっていた。一匹も余すことなく殺してしまおうと、白痴の子どものように足を鳴らす。何度踏み潰しても、足を地面に落とす直前でアリたちは散り散りに逃げていってしまう。影に反応して拡散するのだとしたら、アリたちは僕が思っているよりもずっと賢いということになる。こんなにも小さな体で、脳みそなんてどこにも無さそうな、恐怖という感情すら持ち合わせていないように見える下等生物のくせに。それがまた悔しくて、駄々っ子のように僕は地面を踏み続ける。どろどろの白い液体に自らの体を沈める黒い点が、僕の命よりも重たいなんてことはまず無い、と信じたい。
頭の上の太陽を見上げると、まぶたの裏がぴくぴくと痙攣を始めた。強過ぎる光。押しつけがましい、夏の太陽。耳の奥でずっと鳴り続けるのはセミの声。頭を振って振り落とそうとしても、決して消えることのない命の叫び、鼓動。
僕は夏が嫌いだ。理由のない苛立ちが止まないのも、根拠のない焦燥感に駆られるのも、全てこの暑さのせいに違いない。
縁側に寝転がった妹は、さっきからずっと動かない。眠っているのかも知れない。気を失っているのかも知れない。寝たふりをしているのかも知れない。死んだふりをしているのかも知れない。いや、本当に死んでしまったのかも知れない。僕が殺したのかも知れない。アリを殺すよりも簡単に、妹は死んでしまった。
妹の体をまたいで部屋に上がる。散らばったチラシの裏には、幾人ものお姫様が並ぶ。陽の当らない廊下は暗く湿っていた。セミの声が少しだけ遠ざかる。
誰もいない台所。ここだけは異空間のように、冷たい空気を纏ったまま、薄闇に暮れている。冷蔵庫が時々思い出したようにぶうん、と鳴る。壁の時計の音に気が付くと、ずっとそれを追いかけてしまう。僕の耳は僕のものなのに、僕の意識が届かないところで勝手に動いている。
母は祖母を病院へ連れていった。父は数週間前から帰って来ない。祖父はもう長いこと顔を見ていない。身動きの取れない体で離れに閉じ込められて、きっともう死んでしまっている。皆気付いているのに、気付かないふりをしている。白いシーツが汚物と血液で汚れていることを、一秒ごとに祖父の体が祖父のものでなくなっていくということを、この家に住む者は皆知っている。この暑さで腐乱した体から放たれる異臭が思いがけず鼻腔の奥を揺さぶることがあるというのに、それは気のせいだと思わされる。誰も何も言わないけれど、皆気付いている。皆知っている。疑問を持つことは許されない。
冷凍庫から氷を取り出し、口に含んだ。奥歯で噛み砕くと、じゃこじゃこと音を立てて溶ける。また口に含む。噛み砕く。一連のこの動作を繰り返し、数十分前の記憶を反芻する。
「じいちゃんの部屋行ってみるか?」
縁側で絵を描いていた妹に向かって言ったつもりだったが、それは独白みたいにむなしく畳の上を滑り落ちた。妹の傍らに置かれた食べかけのバニラアイスが、強い光に照らされて白く反射していた。
「じいちゃんの部屋、行くか?」
僕はもう一度問うた。今度はきちんと妹の耳に届くように、さっきよりも大きな声で。妹はこちらを振り向き、首を横に振った。表情はなかった。いつもだ。妹は決して笑わない。絶対に泣かない。そして喋らない。言葉を知らないのかも知れない。意思表示は首の動きだけで事足りる。
妹は僕に背を向けて絵の続きを描き始めた。じいちゃんの部屋に行くつもりなど、最初から無かった。この家に二人だけで残された妹と僕だけの時間を共有したくて、秘密を作りたくて、その口実に過ぎなかった。
二つに結われた髪の毛が揺れるたび、胸の奥の方から何か得体の知れないものが込み上げてきた。その正体が何なのか分からず、ただ怯え、持て余し、自分の胃を取り出してひねり潰す妄想を何度も何度も重ねた。
すっぱい胃液が口の中を汚す。背中を伝う汗が、早く、と僕を急かす。セミの声が大きくなる。意識が、感情が、心が、脳が、僕の体から離れていく。
「 」
僕は妹の名前を呼んだ。気だるそうな瞳が僕を見る。何かを言いたげでもあり、何もかもを知っているような顔をして、僕を蔑む。
体の下の妹は小さく、すぐにでも事切れてしまいそうなほど頼りなかった。力を込めるたび、抵抗するわけでもなく、じっと僕を見ていた。両の目玉が徐々に大きくなる。僕は力の緩め方が分からず、小さな体が伸びきってしまったあとも首を締め続けた。祖父が迎えた孤独な、緩やかな死と、妹の身に降りかかった兄の裏切り、突然の死。どちらが不幸だろう。どちらが幸せだろう。
眼球の裏側がじんじんと充血を始め、大きく息を吐いて僕は手を離した。妹はもう動かなかった。
口の中の氷が溶けきってしまう前に、冷凍庫を閉め、台所をあとにした。縁側に戻ると、妹はまだ横になっていた。僕は隣に寝転がり、目を閉じる。閉じたまぶたに容赦なく光がねじ込まれる。
動かない妹を抱きしめると、バニラアイスのにおいがした。小さな肩に歯を立てると僅かな抵抗を持ってゆっくりと食い込み、セミの声が止む日のことを、祖父の遺体が処理される日のことを考えながら、まぶたの裏の赤黒い光をぐるぐると回した。
(2010/12)
僕は躍起になっていた。一匹も余すことなく殺してしまおうと、白痴の子どものように足を鳴らす。何度踏み潰しても、足を地面に落とす直前でアリたちは散り散りに逃げていってしまう。影に反応して拡散するのだとしたら、アリたちは僕が思っているよりもずっと賢いということになる。こんなにも小さな体で、脳みそなんてどこにも無さそうな、恐怖という感情すら持ち合わせていないように見える下等生物のくせに。それがまた悔しくて、駄々っ子のように僕は地面を踏み続ける。どろどろの白い液体に自らの体を沈める黒い点が、僕の命よりも重たいなんてことはまず無い、と信じたい。
頭の上の太陽を見上げると、まぶたの裏がぴくぴくと痙攣を始めた。強過ぎる光。押しつけがましい、夏の太陽。耳の奥でずっと鳴り続けるのはセミの声。頭を振って振り落とそうとしても、決して消えることのない命の叫び、鼓動。
僕は夏が嫌いだ。理由のない苛立ちが止まないのも、根拠のない焦燥感に駆られるのも、全てこの暑さのせいに違いない。
縁側に寝転がった妹は、さっきからずっと動かない。眠っているのかも知れない。気を失っているのかも知れない。寝たふりをしているのかも知れない。死んだふりをしているのかも知れない。いや、本当に死んでしまったのかも知れない。僕が殺したのかも知れない。アリを殺すよりも簡単に、妹は死んでしまった。
妹の体をまたいで部屋に上がる。散らばったチラシの裏には、幾人ものお姫様が並ぶ。陽の当らない廊下は暗く湿っていた。セミの声が少しだけ遠ざかる。
誰もいない台所。ここだけは異空間のように、冷たい空気を纏ったまま、薄闇に暮れている。冷蔵庫が時々思い出したようにぶうん、と鳴る。壁の時計の音に気が付くと、ずっとそれを追いかけてしまう。僕の耳は僕のものなのに、僕の意識が届かないところで勝手に動いている。
母は祖母を病院へ連れていった。父は数週間前から帰って来ない。祖父はもう長いこと顔を見ていない。身動きの取れない体で離れに閉じ込められて、きっともう死んでしまっている。皆気付いているのに、気付かないふりをしている。白いシーツが汚物と血液で汚れていることを、一秒ごとに祖父の体が祖父のものでなくなっていくということを、この家に住む者は皆知っている。この暑さで腐乱した体から放たれる異臭が思いがけず鼻腔の奥を揺さぶることがあるというのに、それは気のせいだと思わされる。誰も何も言わないけれど、皆気付いている。皆知っている。疑問を持つことは許されない。
冷凍庫から氷を取り出し、口に含んだ。奥歯で噛み砕くと、じゃこじゃこと音を立てて溶ける。また口に含む。噛み砕く。一連のこの動作を繰り返し、数十分前の記憶を反芻する。
「じいちゃんの部屋行ってみるか?」
縁側で絵を描いていた妹に向かって言ったつもりだったが、それは独白みたいにむなしく畳の上を滑り落ちた。妹の傍らに置かれた食べかけのバニラアイスが、強い光に照らされて白く反射していた。
「じいちゃんの部屋、行くか?」
僕はもう一度問うた。今度はきちんと妹の耳に届くように、さっきよりも大きな声で。妹はこちらを振り向き、首を横に振った。表情はなかった。いつもだ。妹は決して笑わない。絶対に泣かない。そして喋らない。言葉を知らないのかも知れない。意思表示は首の動きだけで事足りる。
妹は僕に背を向けて絵の続きを描き始めた。じいちゃんの部屋に行くつもりなど、最初から無かった。この家に二人だけで残された妹と僕だけの時間を共有したくて、秘密を作りたくて、その口実に過ぎなかった。
二つに結われた髪の毛が揺れるたび、胸の奥の方から何か得体の知れないものが込み上げてきた。その正体が何なのか分からず、ただ怯え、持て余し、自分の胃を取り出してひねり潰す妄想を何度も何度も重ねた。
すっぱい胃液が口の中を汚す。背中を伝う汗が、早く、と僕を急かす。セミの声が大きくなる。意識が、感情が、心が、脳が、僕の体から離れていく。
「 」
僕は妹の名前を呼んだ。気だるそうな瞳が僕を見る。何かを言いたげでもあり、何もかもを知っているような顔をして、僕を蔑む。
体の下の妹は小さく、すぐにでも事切れてしまいそうなほど頼りなかった。力を込めるたび、抵抗するわけでもなく、じっと僕を見ていた。両の目玉が徐々に大きくなる。僕は力の緩め方が分からず、小さな体が伸びきってしまったあとも首を締め続けた。祖父が迎えた孤独な、緩やかな死と、妹の身に降りかかった兄の裏切り、突然の死。どちらが不幸だろう。どちらが幸せだろう。
眼球の裏側がじんじんと充血を始め、大きく息を吐いて僕は手を離した。妹はもう動かなかった。
口の中の氷が溶けきってしまう前に、冷凍庫を閉め、台所をあとにした。縁側に戻ると、妹はまだ横になっていた。僕は隣に寝転がり、目を閉じる。閉じたまぶたに容赦なく光がねじ込まれる。
動かない妹を抱きしめると、バニラアイスのにおいがした。小さな肩に歯を立てると僅かな抵抗を持ってゆっくりと食い込み、セミの声が止む日のことを、祖父の遺体が処理される日のことを考えながら、まぶたの裏の赤黒い光をぐるぐると回した。
(2010/12)
PR
この記事にコメントする
プロフィール
HN:
原発牛乳
年齢:
40
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
職業:
自由人
趣味:
眠ること
自己紹介:
ただのメモです。
ただのメモです。
ブログ内検索