世界の終わり。
彼女が隣の市の国立病院に転院してから三週間が過ぎた。週末には必ず面会に行くし、そうでなくても時間が出来れば僕は病院に向かう。最上階の九階、ナースステーションを突っ切った廊下の一番奥の個室が彼女の病室だ。
「いらっしゃい」
僕の姿を見付けた彼女は、優しく美しい笑みを浮かべ僕を手招く。
「退屈だったわ。でも、もうすぐ退院出来そうなの」
嬉しそうに声を弾ませる彼女の額には大きな裂傷が走り、白く細い首にも同じような赤い傷が幾つも付いている。手首から二の腕にかけてが一番ひどく、太股、腹、肋骨の上、体中は傷だらけだ。しかし満身創痍の彼女は常に笑みを絶やさない。だから僕も笑う。僕に出来ることは笑って話を聞くことくらいしかないのだ。彼女を救い出すことが出来ない無力さに、僕は心底うんざりする。
「早く外の空気を吸いたいなあ」
窓辺に立ち、彼女は呟く。視線は突き抜けるような青空を捕らえたまま動かない。彼女の背中になら羽根が生えていてもきっとおかしくはないだろう。
緩やかに、そして確実に彼女は壊れて行った。その状態に貶めたのは僕だけが原因ではない。そう思い込むことにしてはいるが、拭いきれない罪悪感に打ちのめされることの方が多くて僕は挫けそうになる。そんな時は彼女に会いに行く。彼女の笑みに僕は救われている。
「昨日、あなたの夢を見たの。腕を組んで砂浜を歩いていたわ」
彼女の表情が一瞬間、堅くなる。泣きそうな表情のまま無理矢理笑みを作り、視線を青空に戻すと彼女は格子のはまった窓を開けた。今すぐにでも飛び去って行ってしまいそうだ。
僕は、彼女に触れられない。かつては幾度となく抱き合った仲なのに。
現在の彼女は僕が触れるだけですぐに崩れ落ちてしまいそうなほど脆くて弱い。僕が勝手にそう見ているだけだが、実際のところ彼女は細く、ごく最小限の肉しか付いていない。
自惚れているということは百も承知だ。自意識が過剰過ぎることも、それが彼女を苦しめている一因であるということも。
一定の距離を保ったまま僕たちは狭い病室で時間を共有する。淀みなく季節は流れて行くのに、僕の心は淀んだまま動かない。
「りんごジュースが飲みたい」
彼女がそう言ったので、僕は地下階にある売店に向かった。彼女はあまり自分の欲望を口に出さないので、用明された僕は久し振りに「嬉しい」という感情で体を満たすことが出来た。
紙パックに入ったりんごジュースとあんドーナツと共に病室に戻る。僕の姿を見付けた彼女は、満面の笑みをたたえたまま涙をこぼした。涙はとめどなく溢れ、笑いながら嗚咽する彼女の姿は憐憫と悲劇が支配している。異様な光景だった。
僕は驚き、一瞬後ずさってしまう。それでも恐る恐る彼女の肩に触れてみると、小さくて華奢で、冷たい体がそこにあった。
「手を、繋いで欲しいの」
震える声で彼女は言う。僕は躊躇した。動けなかった。彼女の手を握ることで、僕の方がどうにかなってしまいそうだったのだ。
ゆっくりと彼女の手のひらが近付く。蛇に睨まれた蛙のように、僕の体は固まったままだ。氷のように冷たい手のひらの感触で、僕は我に返る。一度強く握り返したあと、彼女の頬に触れると指先が涙で濡れた。
「ごめんね」
彼女は言う。
「ごめんね」
彼女は繰り返す。
「ごめんなさい」
声が次第に曇って行く。
「ごめんなさいごめんなさい」
彼女の声には既に表情が無い。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
それしか言えないロボットのように、彼女は繰り返し囁く。僕は耳を塞ぎ、彼女の声を遮る。しかし終わらない。絶つことが出来ない。
その時の僕は、きっとどうにかなってしまっていたのだと思う。指先に込めた力の強さに、自分でも驚いてしまった。
彼女の声が弱く響く。狭い病室の中で反響し、エタノールの匂いに混ざってうやむやにされる。それはある時から完全に消えてしまうのだが、僕の頭の中では絶えず鳴り続けたまま終わらない。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
頭痛と耳鳴りが交互に押し寄せて来た頃、彼女はだらしなく腕を垂らしたまま動かなくなった。赤い傷痕は、青白い肌によく映えて、ある種の芸術品のようだった。
リノリウムの床に転がったりんごジュースとあんドーナツを拾い上げ、僕は彼女に手渡す。力無く伸びきった指先がそれを掴むことはない。仕方なく彼女の手のひらの上に乗せると、驚くべき早さで雲が流れて行った。窓の外は相変わらず青い。
僕は解放されていた。冷たい指先に触れると僕の中の恐怖が一掃され、浄化されて行くように思えた。
二度と起き上がることのない彼女の薄い胸の上で、僕は声を上げて泣く。
二度と握り合うことのない手のひらを白い病室の中でいつまでも繋いでいたら、やはり僕はどうにかなってしまっているのだと気付いた。
(2007/6)
「いらっしゃい」
僕の姿を見付けた彼女は、優しく美しい笑みを浮かべ僕を手招く。
「退屈だったわ。でも、もうすぐ退院出来そうなの」
嬉しそうに声を弾ませる彼女の額には大きな裂傷が走り、白く細い首にも同じような赤い傷が幾つも付いている。手首から二の腕にかけてが一番ひどく、太股、腹、肋骨の上、体中は傷だらけだ。しかし満身創痍の彼女は常に笑みを絶やさない。だから僕も笑う。僕に出来ることは笑って話を聞くことくらいしかないのだ。彼女を救い出すことが出来ない無力さに、僕は心底うんざりする。
「早く外の空気を吸いたいなあ」
窓辺に立ち、彼女は呟く。視線は突き抜けるような青空を捕らえたまま動かない。彼女の背中になら羽根が生えていてもきっとおかしくはないだろう。
緩やかに、そして確実に彼女は壊れて行った。その状態に貶めたのは僕だけが原因ではない。そう思い込むことにしてはいるが、拭いきれない罪悪感に打ちのめされることの方が多くて僕は挫けそうになる。そんな時は彼女に会いに行く。彼女の笑みに僕は救われている。
「昨日、あなたの夢を見たの。腕を組んで砂浜を歩いていたわ」
彼女の表情が一瞬間、堅くなる。泣きそうな表情のまま無理矢理笑みを作り、視線を青空に戻すと彼女は格子のはまった窓を開けた。今すぐにでも飛び去って行ってしまいそうだ。
僕は、彼女に触れられない。かつては幾度となく抱き合った仲なのに。
現在の彼女は僕が触れるだけですぐに崩れ落ちてしまいそうなほど脆くて弱い。僕が勝手にそう見ているだけだが、実際のところ彼女は細く、ごく最小限の肉しか付いていない。
自惚れているということは百も承知だ。自意識が過剰過ぎることも、それが彼女を苦しめている一因であるということも。
一定の距離を保ったまま僕たちは狭い病室で時間を共有する。淀みなく季節は流れて行くのに、僕の心は淀んだまま動かない。
「りんごジュースが飲みたい」
彼女がそう言ったので、僕は地下階にある売店に向かった。彼女はあまり自分の欲望を口に出さないので、用明された僕は久し振りに「嬉しい」という感情で体を満たすことが出来た。
紙パックに入ったりんごジュースとあんドーナツと共に病室に戻る。僕の姿を見付けた彼女は、満面の笑みをたたえたまま涙をこぼした。涙はとめどなく溢れ、笑いながら嗚咽する彼女の姿は憐憫と悲劇が支配している。異様な光景だった。
僕は驚き、一瞬後ずさってしまう。それでも恐る恐る彼女の肩に触れてみると、小さくて華奢で、冷たい体がそこにあった。
「手を、繋いで欲しいの」
震える声で彼女は言う。僕は躊躇した。動けなかった。彼女の手を握ることで、僕の方がどうにかなってしまいそうだったのだ。
ゆっくりと彼女の手のひらが近付く。蛇に睨まれた蛙のように、僕の体は固まったままだ。氷のように冷たい手のひらの感触で、僕は我に返る。一度強く握り返したあと、彼女の頬に触れると指先が涙で濡れた。
「ごめんね」
彼女は言う。
「ごめんね」
彼女は繰り返す。
「ごめんなさい」
声が次第に曇って行く。
「ごめんなさいごめんなさい」
彼女の声には既に表情が無い。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
それしか言えないロボットのように、彼女は繰り返し囁く。僕は耳を塞ぎ、彼女の声を遮る。しかし終わらない。絶つことが出来ない。
その時の僕は、きっとどうにかなってしまっていたのだと思う。指先に込めた力の強さに、自分でも驚いてしまった。
彼女の声が弱く響く。狭い病室の中で反響し、エタノールの匂いに混ざってうやむやにされる。それはある時から完全に消えてしまうのだが、僕の頭の中では絶えず鳴り続けたまま終わらない。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
頭痛と耳鳴りが交互に押し寄せて来た頃、彼女はだらしなく腕を垂らしたまま動かなくなった。赤い傷痕は、青白い肌によく映えて、ある種の芸術品のようだった。
リノリウムの床に転がったりんごジュースとあんドーナツを拾い上げ、僕は彼女に手渡す。力無く伸びきった指先がそれを掴むことはない。仕方なく彼女の手のひらの上に乗せると、驚くべき早さで雲が流れて行った。窓の外は相変わらず青い。
僕は解放されていた。冷たい指先に触れると僕の中の恐怖が一掃され、浄化されて行くように思えた。
二度と起き上がることのない彼女の薄い胸の上で、僕は声を上げて泣く。
二度と握り合うことのない手のひらを白い病室の中でいつまでも繋いでいたら、やはり僕はどうにかなってしまっているのだと気付いた。
(2007/6)
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7月31日、11時半過ぎ。目の前の温度計は34度を指している様に見えるが、暑さで意識朦朧、視界はぼやけているので定かでは無い。
夏の真下、開け放たれた窓、揺れる濁った純白のカーテン。私は何故此処に居るのだろう。何故この狭く暑苦しい教室で、大嫌いな男子生徒と一緒に数学の補習を受けて居るのだろう。
思考が止まっている。
どうでも良い。早く終わらせて家に帰りたい。エアコンを利かせた部屋で、好きな音楽でも聴きながら昼寝をしたい。だるい。
「宮下さん、」
隣の席に座った大嫌いな村上に話し掛けられた。机の上に頭を乗せ、こちらを向いて口で呼吸をしている。
「…なに」
面倒臭いので返事をするのを躊躇ったが、村上の低い声は少しだけ気に入っているので最低限の言葉を返した。だるさが最高潮に達した私の頭も机の上だ。呼吸は未だかろうじて鼻で。
黒板の上では二次方程式について、チビでデブでハゲ頭の吉川という教師が孤独な論争を繰り返している。私も村上も補習を受ける態度では無い。
「今日帰りみなみ屋のかき氷食べに行こうよ」
みなみ屋というのは学校から歩いて3分先、バス停の前にある古い駄菓子屋だ。半分呆けたばあさんが一人でやっている。お釣りを必ず多く渡すので、学生に大人気の店なのだ。皆いつか罰が当たるぜ、なんて思いながら千円札で会計をする私も人でなしだろうか。
「やーだよ。今日は早く帰りたい」
チビでデブでハゲ頭の吉川に気を遣って、私は出来るだけ小声で返事をした。現在の体勢では吉川の姿は全く視界に入って来ないが、多分聞こえていないだろう。村上は眉間に皺を寄せ、何かを考えている。
私は目を瞑り、みなみ屋のかき氷を食べる私と村上の姿を想像した。汗臭い制服姿で、私はいちご、村上はレモン味を注文する。何十年も前に製造されたであろう旧型のテレビから流れる携帯電話のコマーシャル。
生ぬるい空気をただ掻き回すだけの扇風機の羽根は冴えた緑色。
村上はきっと無駄にべらべらと喋り、私は時たまだるそうに相槌を打つ。ばあさんの動きは緩やかに雑で、多分私のかき氷はメロン味になっているだろう。
「いいじゃん、奢るからさ」
村上は吉川の存在を忘れている様だ。声がでかい。
私は目を瞑ったまま黙っていた。頭の中では今朝冷蔵庫の中に確認したカップアイスが回っている。
「はい、きりーつ、れーい、終了」
いつの間にか正午を回り、数学の補習は終わった様だ。吉川は早足で教室を出て行った。
今日私と村上がわざわざ学校まで来た意味はあったのだろうか。そして、吉川も。
「行く?行かない?」
立ち上がり、今日一度も開かなかった数学の教科書を鞄に詰めながら村上が尋ねる。
どうして男というやつはすぐに答えを出したがるのだ。私は一丁前にそんなことを思った。男という男を知っている訳でも無いのに。取り敢えず目を瞑ったまま頷く。
「どっちよ」
村上の顔が近付いて来る気配がした。私はそのまま村上の唇を受け止める。予想通りだ。意外と柔らかい。鼻息は少しだけ荒い気もするが、落ち着いているし慣れているのかも知れない。
「行く」
半分だけ目を開くと村上がにやっと笑った。
大嫌いなこの男と私は今からみなみ屋でかき氷を食べる。炎天下のグラウンドを村上と二人で歩くのは大層暑苦しい気がしたが、きっとそれも悪くない。
そろそろ素直になれよ自分、そう言い聞かせ私は立ち上がり、黒板消しをクリーナーに掛けようとしている村上の背中にしがみついた。
「おお、びっくりした」
村上の背中からはやっぱり暑苦しい匂いがしている。私は村上の体温が私より高いということを確認してから一人でにやにやと笑った。
「なによ」
村上の低い声も笑っている。今日補習を受けたのが私と村上だけで良かったと思った。
色とりどりのチョークで染まった手を廊下にある水道で流した後、私と村上は濡れた手のひらを重ねて歩いた。
「宮下さんって不思議ちゃんでしょ」
君の方が不思議ちゃんだよ、そう言うと村上は大きな口を開けて笑った。
太陽はまだ高い。明日からは8月だ。陽炎の立ったグラウンドの焼けた土を踏みながら私と村上が手を繋いで歩く姿を想像すると、また笑えた。
(2007/6)
夏の真下、開け放たれた窓、揺れる濁った純白のカーテン。私は何故此処に居るのだろう。何故この狭く暑苦しい教室で、大嫌いな男子生徒と一緒に数学の補習を受けて居るのだろう。
思考が止まっている。
どうでも良い。早く終わらせて家に帰りたい。エアコンを利かせた部屋で、好きな音楽でも聴きながら昼寝をしたい。だるい。
「宮下さん、」
隣の席に座った大嫌いな村上に話し掛けられた。机の上に頭を乗せ、こちらを向いて口で呼吸をしている。
「…なに」
面倒臭いので返事をするのを躊躇ったが、村上の低い声は少しだけ気に入っているので最低限の言葉を返した。だるさが最高潮に達した私の頭も机の上だ。呼吸は未だかろうじて鼻で。
黒板の上では二次方程式について、チビでデブでハゲ頭の吉川という教師が孤独な論争を繰り返している。私も村上も補習を受ける態度では無い。
「今日帰りみなみ屋のかき氷食べに行こうよ」
みなみ屋というのは学校から歩いて3分先、バス停の前にある古い駄菓子屋だ。半分呆けたばあさんが一人でやっている。お釣りを必ず多く渡すので、学生に大人気の店なのだ。皆いつか罰が当たるぜ、なんて思いながら千円札で会計をする私も人でなしだろうか。
「やーだよ。今日は早く帰りたい」
チビでデブでハゲ頭の吉川に気を遣って、私は出来るだけ小声で返事をした。現在の体勢では吉川の姿は全く視界に入って来ないが、多分聞こえていないだろう。村上は眉間に皺を寄せ、何かを考えている。
私は目を瞑り、みなみ屋のかき氷を食べる私と村上の姿を想像した。汗臭い制服姿で、私はいちご、村上はレモン味を注文する。何十年も前に製造されたであろう旧型のテレビから流れる携帯電話のコマーシャル。
生ぬるい空気をただ掻き回すだけの扇風機の羽根は冴えた緑色。
村上はきっと無駄にべらべらと喋り、私は時たまだるそうに相槌を打つ。ばあさんの動きは緩やかに雑で、多分私のかき氷はメロン味になっているだろう。
「いいじゃん、奢るからさ」
村上は吉川の存在を忘れている様だ。声がでかい。
私は目を瞑ったまま黙っていた。頭の中では今朝冷蔵庫の中に確認したカップアイスが回っている。
「はい、きりーつ、れーい、終了」
いつの間にか正午を回り、数学の補習は終わった様だ。吉川は早足で教室を出て行った。
今日私と村上がわざわざ学校まで来た意味はあったのだろうか。そして、吉川も。
「行く?行かない?」
立ち上がり、今日一度も開かなかった数学の教科書を鞄に詰めながら村上が尋ねる。
どうして男というやつはすぐに答えを出したがるのだ。私は一丁前にそんなことを思った。男という男を知っている訳でも無いのに。取り敢えず目を瞑ったまま頷く。
「どっちよ」
村上の顔が近付いて来る気配がした。私はそのまま村上の唇を受け止める。予想通りだ。意外と柔らかい。鼻息は少しだけ荒い気もするが、落ち着いているし慣れているのかも知れない。
「行く」
半分だけ目を開くと村上がにやっと笑った。
大嫌いなこの男と私は今からみなみ屋でかき氷を食べる。炎天下のグラウンドを村上と二人で歩くのは大層暑苦しい気がしたが、きっとそれも悪くない。
そろそろ素直になれよ自分、そう言い聞かせ私は立ち上がり、黒板消しをクリーナーに掛けようとしている村上の背中にしがみついた。
「おお、びっくりした」
村上の背中からはやっぱり暑苦しい匂いがしている。私は村上の体温が私より高いということを確認してから一人でにやにやと笑った。
「なによ」
村上の低い声も笑っている。今日補習を受けたのが私と村上だけで良かったと思った。
色とりどりのチョークで染まった手を廊下にある水道で流した後、私と村上は濡れた手のひらを重ねて歩いた。
「宮下さんって不思議ちゃんでしょ」
君の方が不思議ちゃんだよ、そう言うと村上は大きな口を開けて笑った。
太陽はまだ高い。明日からは8月だ。陽炎の立ったグラウンドの焼けた土を踏みながら私と村上が手を繋いで歩く姿を想像すると、また笑えた。
(2007/6)
バイト先の裏ビデオ屋が摘発されて営業停止になりましたので、私はフリーターに出戻ってしまいました。
狭く埃っぽい店内で携帯電話をいじりながら店番をし、たまに来る客に会計をするだけで時給1500円になるこのバイトを失ったのはかなり痛かったのですが、まあ仕方が無い。
仕事も縁だよねえ、と思いながら暫くの間はネアンデルタール人によく似た元店長に媚びを売って食い繋いでいました。しかし、日を追うごとに元店長の小鼻の黒ずみやら白く膿んだにきびやら男のくせにねちっこくあがる喘ぎ声やらが気持ち悪くなって来ましたので、連絡を取るのをやめました。メールアドレスを変更し、元店長の番号を着信拒否設定するだけで、それは容易に実現出来たのでした。あまりの呆気なさに妙な寂しさすら覚えましたが、まあそんなものは幻覚に過ぎないと思い直して、ネアンデルタール人似の元店長のことは忘れることにしました。
もっと効率の良いバイトは無いものかとコンビニで求人誌を買い求め職を探していますと、昔の彼氏から電話が掛かって来ました。何の理由も告げずに去ってしまった彼氏だったので、もしや復縁を迫る電話なのでは、などと甘い考えを頭に抱いたまま電話に出てみると、
「もしもし、まりあちゃん?」
元彼氏は私を「まりあちゃん」と呼びました。しかし私の名前は「まりあ」などという可愛らしいものではありません。違います、と言って切りました。間違い電話だったのでしょう。
意識を求人誌に戻して職探しを再開させると、「時給4500円~日給3万5千円以上」という素晴らしい広告が目に飛び込んで参りました。よく見ると、同じような情報がそのページには幾つも書かれています。違うのはお店の名前と電話番号くらいで、条件も何となく似ているものばかりでした。
私はそのうちの一つに電話を掛け、面接の予定を取り付けました。翌日の夕方指定された場所に行き面接を受けると、すぐに採用が決まりました。
この仕事では本名を名乗ってはいけないようです。名前を何にするか、と魔神ブウによく似た社長が尋ねて来たので、私は
「じゃあまりあちゃんで」
と答えました。昨夜の電話が頭に残っていたのかも知れません。
「まりあちゃん、仕事だよ」
そう言いながら無駄に喜びを表現しようと唇を寄せて来た社長に連れられて行った場所は、干からびたラブホテルでした。
「抜いて、出すだけだから。頑張って」
魔神ブウ似の社長は私の耳元で優しく、若干気持ち悪いと感じるくらいの割合で吐息を混ぜつつ囁くと、手を振って去って行きました。
社長に言われた部屋の前に立って呼び鈴を押します。暫くして戸が開きました。
「こんばんはー、まりあでーす」
一応可愛いく元気な女の子を装いながら挨拶をし顔を上げると、元店長の潰れたあごにきびが目に飛び込んで来ました。
「え、すみこちゃん…」
パンツ一丁になった元店長が呆けた顔でこちらを見ているので、取り敢えずダッシュで逃げました。元店長と仕事をしても前と同じだと思ったからです。
逃げ込んだ先のコンビニで社長に電話を掛けて辞めることを告げました。どうやら私はまりあちゃんにはなれなかったようです。別の求人誌を買い、人生そんなに甘くないよなあ、と責め立てるように赤い空を眺めながら家に帰りました。頬を何か冷たいものが流れて行きましたが、気付かないふりをしてスキップをするとすれ違う通行人の視線が痛かったです。
(2007/4)
狭く埃っぽい店内で携帯電話をいじりながら店番をし、たまに来る客に会計をするだけで時給1500円になるこのバイトを失ったのはかなり痛かったのですが、まあ仕方が無い。
仕事も縁だよねえ、と思いながら暫くの間はネアンデルタール人によく似た元店長に媚びを売って食い繋いでいました。しかし、日を追うごとに元店長の小鼻の黒ずみやら白く膿んだにきびやら男のくせにねちっこくあがる喘ぎ声やらが気持ち悪くなって来ましたので、連絡を取るのをやめました。メールアドレスを変更し、元店長の番号を着信拒否設定するだけで、それは容易に実現出来たのでした。あまりの呆気なさに妙な寂しさすら覚えましたが、まあそんなものは幻覚に過ぎないと思い直して、ネアンデルタール人似の元店長のことは忘れることにしました。
もっと効率の良いバイトは無いものかとコンビニで求人誌を買い求め職を探していますと、昔の彼氏から電話が掛かって来ました。何の理由も告げずに去ってしまった彼氏だったので、もしや復縁を迫る電話なのでは、などと甘い考えを頭に抱いたまま電話に出てみると、
「もしもし、まりあちゃん?」
元彼氏は私を「まりあちゃん」と呼びました。しかし私の名前は「まりあ」などという可愛らしいものではありません。違います、と言って切りました。間違い電話だったのでしょう。
意識を求人誌に戻して職探しを再開させると、「時給4500円~日給3万5千円以上」という素晴らしい広告が目に飛び込んで参りました。よく見ると、同じような情報がそのページには幾つも書かれています。違うのはお店の名前と電話番号くらいで、条件も何となく似ているものばかりでした。
私はそのうちの一つに電話を掛け、面接の予定を取り付けました。翌日の夕方指定された場所に行き面接を受けると、すぐに採用が決まりました。
この仕事では本名を名乗ってはいけないようです。名前を何にするか、と魔神ブウによく似た社長が尋ねて来たので、私は
「じゃあまりあちゃんで」
と答えました。昨夜の電話が頭に残っていたのかも知れません。
「まりあちゃん、仕事だよ」
そう言いながら無駄に喜びを表現しようと唇を寄せて来た社長に連れられて行った場所は、干からびたラブホテルでした。
「抜いて、出すだけだから。頑張って」
魔神ブウ似の社長は私の耳元で優しく、若干気持ち悪いと感じるくらいの割合で吐息を混ぜつつ囁くと、手を振って去って行きました。
社長に言われた部屋の前に立って呼び鈴を押します。暫くして戸が開きました。
「こんばんはー、まりあでーす」
一応可愛いく元気な女の子を装いながら挨拶をし顔を上げると、元店長の潰れたあごにきびが目に飛び込んで来ました。
「え、すみこちゃん…」
パンツ一丁になった元店長が呆けた顔でこちらを見ているので、取り敢えずダッシュで逃げました。元店長と仕事をしても前と同じだと思ったからです。
逃げ込んだ先のコンビニで社長に電話を掛けて辞めることを告げました。どうやら私はまりあちゃんにはなれなかったようです。別の求人誌を買い、人生そんなに甘くないよなあ、と責め立てるように赤い空を眺めながら家に帰りました。頬を何か冷たいものが流れて行きましたが、気付かないふりをしてスキップをするとすれ違う通行人の視線が痛かったです。
(2007/4)
プロフィール
HN:
原発牛乳
年齢:
40
性別:
女性
誕生日:
1984/09/21
職業:
自由人
趣味:
眠ること
自己紹介:
ただのメモです。
ただのメモです。
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